The Claudia Kishi Club

17分しかないドキュメンタリーに1分ちょっとの予告編。

いや、もうドキューンと胸を撃ち抜かれたかんじですな。クラフティな作りといい、憧れの存在や人生のお手本(クローディア・キシがお手本)を持ってることの強みとか。で、このクローディア・キシが登場する物語が 『The Babysitters Club』 です。

『The Babysitters Club』も全編見ました。すごく若いのに「ベビーシッター業」にそんじょそこらの会社員よりも真剣に取り組んでいます。恋に色めき立って自分を見失うところも面白かった。

サマーキャンプのシーンには、「世代」をすごく感じさせられました。私はどちらかというと「熱く燃える」のはかっこよくないと考える世代に属しているので…… サマーキャンプに参加すること自体が耐えられません。

最近、シスターフッド系のお話が心地よいです。なので、『Moxie』も見ました。こちらは80年代のティーン映画の皮をかぶった2020年代のティーン映画です。ハワイ編のテラハに出ていたローレン・サイが準主役級で登場したので、椅子からでんぐり返るかと思うくらいに驚くとともに、あちこちの人にメッセージを打ちました。

なんつーか、近頃の女子はアクティビストになるんですな。面白いです。

The Staircase

今ネットフリックスで配信されている『The Staircase』が、HBO MAXで新たにドラマ化されるらしい。キャストが豪華なのでこちらでは比較的大きな芸能ニュースになっています。

小説家マイケル・ピーターソンの妻が階段から転げ落ちたかのように死んでいた。事故なのか、それとも他殺なのか。やがて裁判が始まり、マイケルの有罪が確定する。ところがいろいろなことが発覚し、再審を求めるが…… というあらすじ。

結局のところ「真実」はわからない。もしかしたらマイケルは無罪だったのかもしれないし、二重人格的な「心の闇」を抱えている人なのかもしれない。いずれにしても、彼はお金のある白人男性で、自分の財産をつぎ込んでどこまでも戦う姿勢を見せます。視聴者はあの「O.J.シンプソンの裁判」なみのすごさを体験すると同時に、警察への不信感も募らせてしまいます。

そういうドラマチックな部分もすごいのですが、このドキュメンタリーでは、アメリカの司法制度における判決確定後の様々な救済措置や法取引が実に細かく描かれているのです。聞いたこともない法律用語がでてくるし、有罪を言い渡された人がどのタイミングでどういう手を打つことができるのかを学ぶことができます。でもやっぱり、お金がないと判決を覆すのは難しい。

アメリカは陪審員制度を採用しているので、評決の際には陪審員全員の意見が一致しなければなりません。どういう証拠が陪審員の意見を動かすのかも見どころです。

裁判が行なわれたのはアメリカ南部のノースカロライナ州。したがって、南部の訛りのある英語がバンバンでてくるし、2000年代前半当時の南部でのマイノリティに対する差別意識を垣間見ることもできます。でも、製作はフランスのテレビ局なんですよね。

このドキュメンタリーを見て他人の不幸を「消費」してしまった私が言うのもなんですが、遺族の中でも意見はきっぱりわかれていて、有罪か無罪かの瀬戸際に立つ本人よりも、私は遺族が気の毒でなりませんでした。本人が本当に無罪であるなら、いちばんシャレにならないのはマイケル・ピーターソンなんですけどね。

しかし、True Crimeの見すぎです。『Cruella』が公開されたので、まずは101匹わんちゃんの古いアニメや実写版を復習して気分転換中。

My Anna Madrigal

2021年5月1日。私の大好きな「人」が亡くなりました。亡くなったのはオリンピア・デュカキスですけど。私の愛読書『Tales of the City』(ドラマ化、映画化もされている)の主人公のひとり、アナ・マドリガルを演じていたのがオリンピア・デュカキスだったのです。邦題は『メリー・アン・シングルトン物語』です。

アナ・マドリガルは、サンフランシスコのロシアンヒルにある、28 Barbary Laneという架空の場所にあるアパートの大家で、男性から女性へ性転換をした人です。アパートの大家になる前は、書店をやっていたので、とても文化的で洗練されています。トランスジェンダーとして先陣を切って性転換をし、いろんな苦難をひとり孤独に乗り越えていった経験があり、人の心の痛みがよくわかるから余計な口出しはしません。男性として家庭を持っていたけれど、その家族を棄てて女性になり、差別されながらも女性として男性といろいろな恋に落ちた経験のあるアナ・マドリガルは、「何にも反対しない」のです。

アナ・マドリガルのアパートにはいろんな問題を抱えた人々がやって来ます。その一人が、メリー・アン・シングルトン。彼女は性的マイノリティではないし、中西部出身の白人女性とメインストリームの人なのですが、自分探しにサンフランシスコに来て、28 Barbary Laneに居着いてしまう。なんたってマイノリティの心情など今まで考えたことがないような「善人」のメリー・アンなので、よかれと思ってやることがいつも裏目に出る。でも、アナ・マドリガルはそんなメリー・アンのよさを見抜いているのです。三重県からサンフランシスコにやってきた私は、映画版 『Tales of the City』 を観て自分とメリー・アンを重ねてしまい、「いつもアナ・マドリガルが私のことを気に掛けてくれている」と勝手に思い込んだのでした。ちなみに、私が生まれた町はアメリカ中西部のある町と姉妹都市なので、多分、文化的に似ているところがたくさんあるのでしょう。

『Tales of the City』 の中で、アナ・マドリガルは自分が丹精込めて作ったアパートの庭で、星を眺めながら静かに死んでいきました。

ギリシャ系アメリカ人のオリンピア・デュカキスは、ギリシャの文化とアメリカの文化に挟まれ、どっちにも馴染めずに苦労したそうです。それに、あのギリシャ彫刻っぽいしっかりとした鼻梁。アナ・マドリガル役に抜擢される要素をたくさん持っていました。 5月1日の朝、オリンピアも静かに平和に死んでいったようで、何よりです。

ネットフリックスで配信されている、新しいほうのドラマは古いドラマの同窓会仕立てになっているのと、話がちょっと小難しい感じになっています。1993年版の映画か、古いほうのドラマシリーズがエンタメ要素が強いのでお勧めです。

Nomadland

先週のアカデミー賞授賞式は、ツイッターで追いながら、友達とチャットするという形で参加しました。ノミネートされている作品のうち半分も見ていなかったし、なんといっても、どの映画も映画館で誰かと一緒に見なかったというだけで盛り下がること甚だしかったです。ちなみに私は、『Promising Young Woman』と『Pieces of a Woman』推しでした。どっちも女の人が共感しやすい内容です。

アカデミー賞授賞式の翌週、『Ammonite』と『Portrait of a Lady on Fire』についてクラブハウスで語り合いました。そのときに、オスカーにノミネートされていた他の映画が話題になって、『Nomadland(ノマドランド)』 を見ました。フランシス・マクドーマンドが 「できるだけ大きな画面で見てね」と言っていたのがわかる気がします。

あの映画で描かれているノマド暮らし、しがらみのない生活をどう見るかは、意見の分かれるところですが、私は「絶対に無理派」です。決定打は、「誰の世話にもならないんだから、排泄物の処理も自分でやらなきゃね」とおばさんが巨大なバケツを持って説明しているシーンでした。むしろ、「そっか、そういうことは行政が税金でやってくれている」と改めて気づかされました。自らあの生活を望んだ人々は、ハイジの「おんじ」と同じ精神を共有しているのかもしれません。おんじの暮らしはアニメだからこその美化があって、私は喜んで見ていましたが、あれが実写だったとしたらどうだろう…… と思ってしまうのです。私は逆に、仙人のような生活や、コミューンやキャンプ生活で強いられる諸々のことが苦手なのです。

イタリアのヴィットリオ・デ・セータという人が作った短いドキュメンタリーが大好きなのですが、そのドキュメンタリーの題材になっている1950年代のイタリアの農民や漁師、羊飼いの生活と、ノマドランドの人々の生活はかなり似ている気がしました。ヴィットリオ・デ・セータの短編ドキュメンタリーを「詩」と捉えるなら、『ノマドランド』は「小説」かな。あの映画のノマド暮らしをする人の中には、自分の意志であの生活を選んだ人もいれば、何かをきっかけに転落してあそこに行き着いた人がいて、農民や漁師、羊飼いとはわけが違い、何かしらの物語があるわけです。

L.A. Timesの『一人称単数』の書評と『Promising Young Woman』

4月はじめだったと思いますが、アメリカの新聞各社が村上春樹の『一人称単数』の書評を出していました。中でも、L.A. Timesの書評はもはや書評の体になっていない悪口でした。どのくらいの酷評なのかというと、村上春樹を「女嫌い」呼ばわりし、ユニクロとのコラボでグッズ販売していることまでけなし、もう本の話ではなかったのです。たとえば、アマゾンのコメント欄に、読者が本の梱包や配達に対する不満を書いて、星★1個の評価をし、本の全体的な評価を押し下げているケースが散見されますが、 L.A. Timesの書評もそれに近いものがありました。

それに比べると、ニューヨークタイムズの書評は、英訳者へのリスペクトも込められていて、8つの短編に合わせて「村上春樹の8つの見方」と多面的に評価しています。しかも、今の村上春樹は「西欧のある時期の文化の影響を強く受けた日本人作家」として見られているので、世界的に人気があるけれど、そういう彼を好まない人たちもいる、と書いています。ま、この2つの書評しか私は読んでいないんですが、L.A. Timesの書評と比べれば、そもそも質が段違いによいですよね。書評家なら、やはり「本」を評価してほしい。 L.A. Timesのあの書評が炎上狙いであったことは、あれを書いた女性書評家のツイッターを見ると、なんとなくうかがえました。

しかしですね、キャリー・マリガン主演の『Promising Young Woman』をご覧になりましたか? これは、「若気の至りだ/酔っていたから正気ではなかった」という言訳がついてまわり、うやむやにされがちな、学校で起きるレイプ事件に『危険な情事』的な恐ろしさを感じさせる内容です。この映画が流行った2020年のアメリカを考えると、 L.A. Timesの書評が許される土壌はあったのかなと思います。『一人称単数』は、「僕」が若かりし頃に関わり合った女たちを回顧し、「僕」は、それなりの関係があった女たちを「名前が思い出せない」などと淡々と語ります。つまり、「僕」の記憶の中では、女たちがのっぺらぼう化しているので、アメリカの先鋭的なフェミニスト(あの書評家がそうなのかどうかは知らない)は、村上春樹に対して「この野郎!」と思うのかもしれません。しかも、「僕」は限りなく本人っぽく書かれていますから。

でも、人は回顧するとき、自分に関わりのあった人々の全容を鮮明に思い出せるわけはなく、ぼんやりとしか思い出せない乳白色な部分や、記憶がすり替わっている部分があります。むしろ、そういうほうが圧倒的に多いのではないかと……  『Promising Young Woman』 の中でも、当事者たちの記憶が抜け落ちていたり、薄らいでいたり、主役の記憶ですら、ひょっとしたら「絶対に忘れたくない」という強い思いから、一部の記憶が自己強化しちゃってる可能性もなくはない。

そんな 『Promising Young Woman』 ですが、一回見終わって結末を見た後に、「ひょっとしてあれも、これも、計画の中に織り込まれていた??」と疑問が次々に湧いてきました。もう一回見なければ! これについても、誰かとちょっと話し合いたいです。←パンデミック前なら、映画を映画館で観た後に、一緒に行った人々と話し合えたんですよ。今は、それをクラブハウスでやっている人たちを見かけるんですよね。