ゆきゆきて、神軍

今年の終戦記念日には『ゆきゆきて、神軍』を観ました。この映画の英語タイトルで検索すると、インターネット・アーカイブで無料で観ることができますし、アメリカやカナダにお住いの人なら、The Criterionでも。英語は、『The Emperor’s Naked Army Marches On』です。

最後まで観たけど、精神的にきつかったです。『野火』みたいに映像がグロいわけではまったくありません。本当に人肉を食べて生還した(であろう)人たちに真実を述べよ、と奥崎謙三が迫っているからです。

奥崎謙三のことも、彼が執拗に訪ねる元日本兵たちのことも非難する気持ちにはなれません。何も言えない。どこに向けて言えばいいのかわからないけど、為政者の都合でこんな思いを味わされるのはごめんです。

帰還兵の証言を集めた本なども重要ですよね。

The Dropout

なぜか私は番組名を『The Droplet』だと勘違いしていました。正しくは『The Dropout』。そう言い間違えてしまうのは、注射器を使わず、血を一滴採血すれば、いろんな検査ができるテクノロジーを開発したと豪語していたエリザベス・ホームズの話だから。

このドラマも、『令嬢アンナの真実』も、アメリカの超富裕層に食い込む「突破口」を見つけた瞬間に、自分に流れ込むお金の金額がとんでもないレベルに跳ね上がり、それに比例して嘘のスケールも大きくなります。つまり、お金が有り余っている超富裕層へ「つなぐ人」を見つけだすしぶとさと、はったりをかませる能力が重要ということなのでしょうか。

『令嬢アンナの真実』のアンナにも、『The Dropout』のエリザベスにも虚言癖があり、人生の最終目標が「リッチになる/有名になる」ことでした。もしかするとエリザベスのほうは、最初のうちは世の中を変えるテクノロジーを開発する野心があったのかもしれませんが。最終的には、周囲にいる人々が目を覚まして彼女たちから離れ、彼女たちは失墜しています。大金には無縁のジャーナリストが必死に食いつくところも、この2つのドラマの共通点です。

『令嬢アンナの真実』のアンナには愛すべき「キメ台詞」がたくさんありましたが、『The Droplet』のエリザベスには、「キメ顔」がてんこ盛りでした。目を大きく広げて、絶対に瞬きしない! 実際のエリザベスは目がぎょろっとしてて、声をわざと低くくして話していました。アマンダ・サイフリッドがその不気味さを100倍くらい増幅させていて、そこが見どころかな。あと、守秘義務契約をみんなよく守っているので、いかにもアメリカって感じがします。ドラマだけでなくて、現実でもアメリカ人は守秘義務を(訴えられることがリアルなので)よく守る気がします。ジェフリー・エプスタインを悪を暴くときも、この守秘義務契約がかなり難関だったそうです。

ちなみに、このドラマはポッドキャストをもとにして作られています。

あと、この動画を見れば、実在の人物たちの顔が確認できます。

梨泰院クラス

『梨泰院クラス』を全話見ました。1話が1時間以上、合計16話もあったので、最終回では、面白かったことよりも、持久走のフィニッシュラインにやっとたどり着いた!という達成感で涙しました。

実は、コロナ禍の巣ごもり生活の前半に、このドラマを観ようとしたのだけど、このパク・ソジュンのへんちくりんなイガグリ頭が気持ち悪くて1話で断念。再挑戦してみたところ、今回はすごくストーリーに入り込めて、パク・ソジュン演じるパク・セロイが好きになってしまうほどでした。でも、私がすごく気になった登場人物は、長家の跡継ぎ候補だったドラ息子です。身近に似たような人がいるので、「あるあるだな……」と表情をこわばらせておりました。

しかしパク・セロイのレストラン事業の成功云々より、あいつの愛の行方が!! 鈍感な男ってドラマになるんですね。マッチョな鈍感男が、前科者になり、恨みを晴らそうとしているうちに、いろいろと起きるのが古臭い感じがしたものの、女性陣がいい感じで「自立した女」にアップデートされているのがよかったです。

『梨泰院クラス』の善玉組が相当なデコボコチームで、ある意味王道でした。で、そのチームの中に、韓国人(父)とギニア人(母)を両親に持つ黒人の青年(トニー)がいるのですが、このドラマを観ていた時期が時期だけに、「ひょっとしてトニーの両親は、今話題の宗教で合同結婚をしたのでは??」と深読みしました。

『梨泰院クラス』って「親の不在/親の愛の欠如」が重要よね。様々な形で親の愛情が感じられなくなっていることが、最初から最後まで低音で奏でられているようなドラマでした。

余談:全部見終わってから、あのサウンドトラックを毎日聞かないことには、「何かが足りない!」と思うほどになり、グーグル・ホームに英語で「Play the soundtrack of I-tae-won Class」と話しかけたら、E.T.のサウンドトラックが流れてきました。

最近見た映画&ドラマの忘備録

昔はブログを書くことが趣味だった。ブログを通じていろいろな人に出会えた。あの頃は牧歌的だったのだろうか?最近は、ポッドキャストがかつてのブログのような楽しさを与えてくれている。

さて、最近見た映画。といっても、もう何を見たか忘れているので、思い出した分だけ書き留めておこう。

『トップガン:マーヴェリック』:家人とともに公開日に。お祭り騒ぎに参加するのは、とても楽しかった。多くの人がこの映画について語ってるので、ここには書かないけど、次はIMAX&DBOXで観ようかな。

『Downton Abbey: A New Era』:2、3時間では収まりきらないお話だから、映画はキツイ。過去のドラマをぐるぐる何回も見てるだけで十分。でもファンとしては、ドラマには出てこないキャラクターも出てくるので、ついつい見てしまう。

『Everything Everywhere All at Once』:とても興味深かった。「お前は一体何をやりたいのか?」という悩みは、別に若者の特権的な悩みではない。やりたいことをやれなかったという気持ちは積年の恨みになってこじれる。グーニーズの子役だったキー・ホイ・クァンの年のとり方がいいなと思った。あんな感じの人、好き。

『月は上りぬ』:田中絹代監督の小津安二郎っぽい映画。田中絹代が映画監督もやっていたとは、知らなかった! 戦後10年後くらいの話で、女性はみな自分で人生を選択するなど許されない。でも、この映画では男性陣が優しそうで責任感もありそうなので、それはそれで幸せそうではある。でもあんな時代には戻るのはごめんだ。男性が専制的だと、『ハンドメイズ・テイル』にしかならないから。

どうでもいい話だが、私は昔冬になると長野県の山にこもってはスキーをしていた。そこに、アルバイトで来た地元の女の子の名前が「田中絹代ちゃん」だった。訊いてみれば、やはりお父さんかおじいちゃんが田中絹代のファンだったらしい。

『Successions』:やっとやっとシーズン3まで全部観た。面白いけど、続けざまに見るのはきつい。家族内でも、思いやりに欠け、自己責任を貫いていくと、あのような骨肉の争いになるのだね。極端すぎて笑える。つい、ルパード・マードック一家とか、ドナルド・トランプ一家を思い浮かべてしまう作りになっている。

ドラマと関係ないけど、私は仕事でイヴァンカの本を読み、彼女についていろいろと調べたことがあるけれど、彼女は一部の人が思うような馬鹿ではない(と思う)。あれだけの富裕な家に生まれ、カリスマ性のある親のもとに育った幸と不幸は、この『Successions』に登場する「娘」と重なっている。最近読んだ本『After Steve』にもイヴァンカがちらっと出てきた。ジョブズ時代のアップル社はワシントンDCに政府交渉担当者をわずかしか置かなかったけれど、今のハイテク企業はどこもものすごい数の政府交渉担当者を抱えている。クック自ら出向くこともあり、彼はイヴァンカ&ジャレドと夕食を共にした。あの夫婦はアップル製品好きで有名だから、お父さんにアップル社について穏便な発言をしてもらう狙いがあったと本に書いてあった。まさに、『Successions』みたいな話だわ。

今は新しく出た『Stranger Things』をせっせと見てる。子どもたちの体がすっかり大人の骨格になってきた。少年たちが一気におっさんくさくなっている。

House of Gucci & West Side Story

あちこちで感想をしゃべり散らかしているから忘備録。

『House of Gucci』は、本物と偽物について考えさせられる映画だった。グッチ家に嫁に入ったパトリツィアは、もちろんグッチ家の血は引いていない。グッチ家の人々が偽物のバッグが出回ろうと気にしないのを見て、彼女は憤る。グッチ家の誰よりも商売を案じ、グッチの価値が下がることを嫌っているかのように。「あれはお金に目が眩んでグッチ家を引っ掻き回しただけだ」と思う人もいるだろうけど、どうもそれだけではなさそう。

それに、パトリツィアには男性を通じて自己実現を図ろうとするところがある。それは世代や、生まれ育った環境のせいかもしれない。夫マウリツィオに愛想をつかされても、執拗に追いかけて振り向かせようとする。「こんなことをして恥ずかしくないのか」と言われている彼女を見て、私は悲しかった。パトリツィアは、自分が本当にやりたいことなど考えたこともない人なのではないか。彼女は離婚により、本当に「かつてグッチ家にいた、本物じゃないグッチ」になってしまった。映画では、グッチ家の中にも胡散臭い人たちはいた。しかし、彼らは何をしようと、正真正銘のグッチ家の人だった。

最後に彗星のごとく現れたトム・フォードに、ブランドとしてのグッチが救われると、「本物って何だろう」と思わずにはいられなかった。

ところで、ジャレッド・レトがデブハゲを演じたことがプチ炎上していたらしい。本物のデブハゲにあの役を演じさせろ!ということだったようだが、ここでも「本物と偽物」が問題になるのかと、私は正直驚いた。本物のデブで、あの役に合いそうな人はポール・ウォルター・ハウザーぐらいしか思いつかない。役作りのために太る役者はたくさんいる。クリスチャン・ベールとか、レネー・ゼルウィガーとか。

スピルバーグ版の『West Side Story』は、特に予習もせず、「こういうのは大画面で見なければ」と映画館に行った。61年版のミュージカル映画が好きなので、「どんなもんなのかしら?」と楽しみにしていた。まずは、スピルバーグ版には、ドーラン塗ってプエルトリコ人役をやっている人はいなかった。映画の中で、プエルトリコ人たちはがんがんにスペイン語を話し、字幕に英語は出てこない。英語を話すときも、強いスペイン語訛りで話す。私は英語圏に住みながら、外で日本語をがんがんに話すことも多いので、プエルトリコ人たちがスペイン語で話していても全然気にならない。しかし、映画を観ながら、あれを快く思わない人たちが怒りをあらわにすると、揉め事に発展するのだなという思いを新たにした。話し言葉は「耳につく」ものだけに、嫌悪感も激しくなるのかもしれない。

今、ウクライナ侵攻のせいで、暴力と経済による「制裁」が盛んに報道されているけれど、世の中には「言葉」つまり文化による制裁もある。こちらは日常的に起きるから、自分の居住地の公用語はできるかぎり訛らずに話せたほうが、自己防衛になる。でも、言葉の習得は祖国の文化を守ることと背中合わせなので、バランスをとるのが難しい。世の中がぎすぎすしてくると、なお難しくなる。

マリアが恋人になる彼の名を「アントーニオ?」とスペイン語風に発音して、「いや、アントンだよ」と言われているのがかわいかった。また、マリアとトニーの外見が全然違うので、「人種を超えた愛」が視覚的にパッと理解できるのもよかった。ドーラン塗ってごまかしてるけど、実は白人同士ってのじゃ、ちょっと説得力に欠けるもんね…… 結局どっちのウエストサイドストーリーがいいのかは決められない。今のところ、どっちも同じくらいに好きだな。