三島由紀夫の本と『むずかしい年ごろ』

巣ごもり中に、三島由紀夫の本をとりあえず4冊読みました。『潮騒』と戯曲を除き、ナルシストの三島由紀夫が書いたナルシストな小説は、巣ごもり中にはキツかったです。「そんなこと、どうでもええやろ!」とページを飛ばしてしまいたくなるのです。昔読んだときはそうは思わず、むしろ感化されていたので、「読みごろ」ではなかったのかも。『潮騒』にある三島由紀夫の海の描写がすばらしく、何回読んでも飽きない。あの海を知っているからかも。

面白かったのは、このロシアの小説。『むずかしい年ごろ』というタイトルがもうすばらしく(「むずかしい」が平仮名にしてあるところとか)、遠方の友人がこの本をブックインスタしていたのを見て、私も買ってしまったというわけです。

アンナ・スタロビネツはロシアでは有名なホラー作家らしいです。私はモスクワの空港にしか行ったことないくせに、「ロシアっぽい!」と感動してしまいました。「怖さ」は、そーですねー、乱暴にたとえるなら、ネットフリックスの『Black Mirror』っぽい怖さですかね。虫も出てくるし。虫が苦手な人は、一番最初の話は読まないほうがいいです。私は髪を掻きむしりながら読みましたから。

一番気に入ったのは、「家族」っていう話。頭が半分にスパッと切れているおじさんが出てきて(頭がお椀の形になっている)、頭の中から、「紫色のマスカット」や「ニンニク添えのチキン」を出すのです。こういう話大好き。

紙の本を買ったので、読みたい人には貸せますよ。

シン・ニホン

趣味の読書の合間に、ポストコロナであるとかウィズコロナであるとかの本を読んでばかりいました。仕事でそういう本を何冊か読み、興味の赴くまま、芋づる式に読んでいたのです。ネット討論もいろいろと見ていました(はっきり言ってもうお腹いっぱいです)。

別にこの本は新型コロナとは関係ないのですが、「これからの日本、どうする?」という問いにいろんな具体案が提案されています。先端の技術開発に国が投資しないと、他の先進国にどんどん引き離されて経済は回らないし、経済が回らないと東京一極集中が加速して地方は疲弊する一方だし、高齢者に税金を使うより、若い世代に投資しましょう、という内容です。よく耳にする話ですけど、煽るだけ煽って読者を不安にさせる内容ではなく、最終章では希望を感じさせてくれます。「若い世代に投資」というくらいなので、教育者とか親とか会社の管理職とか、若い人と接する人か、若者が読むべき本だと思います。 

新型コロナをきっかけに「変わる/変わらない」の議論を毎日のように耳にするけれど、ピンチに立たされた人や、家族がいつも同じ空間にいて息が詰まりそうだったという人は既に変わっている(行動には出ていなくても心が変わっているはず)。勤務先から在宅勤務を命じられ、遊びで外出する機会が減って貯金が増えた人などは、変わらないというか、変わる必要があまりない。私は、「そこだな」と思いました。確かにコロナによって起きた問題もありますが、コロナ以前から何らかの「解」を出して行動に移さなければならなかった問題はそれぞれにあって、今回のコロナ禍をきっかけに、それに着手した人は結構いるんじゃないかと思います。私も動画づくりは続けるつもり(笑)。

自粛期間中に考える時間がたっぷりあって、少しずつ街の経済が再開している今になってみると、「ああ、もうちょっと考える時間がほしい」などと思ったりします。散歩しながら、とりとめもなく思索にふける時間が、ポストコロナにもしっかり欲しいなと思う今日この頃です。

最近友達がすごくいいことを言っていました。

「毎日家の掃除ばっかりしてても私の未来は変わらない」

以来、私は散歩中に「<チョメチョメ>ばっかりしてても私の未来は変わらない」の<チョメチョメ>にあたる部分をいろいろと考えています。みなさんの<チョメチョメ>は何ですか?

小さいおうち

The Little House

トロントでこの映画を観たとき、中島京子が会場に来ていて、カナダ人のインタビュアーに「あれは山田洋二という有名な監督が撮ったものなので文句は言えません」と言っていた。そこで原作を読むことにした。

確かに、映画とは違う。原作はカズオ・イシグロの『日の名残り』に非常に近いノリで書かれている。主な違いは、『日の名残り』のほうは、執事の回想に「おいおい!」と突っ込むのが読者で、『小さいおうち』は、女中の回想に女中の甥の次男という若者が横やりを入れているので、それも合わせて読者は読むところ。

トロントでは緊急事態宣言がまだ解かれておらず、夜がヒマなので、『小さいおうち』の英訳と併せて並行読書することにした。翻訳には、誤訳はあっても「これが正解」というものはないので、他人の翻訳を読むのがいちばんいい勉強になる。私には、原書が日本語で、その英訳を見るというのが一番しっくりいく。英訳の苦労に触れられるし、斬新な解決策を軽やかに見せているところに感心するのが好きだから。逆に他人の和訳を見ると、自分の能力と他人の能力を比べてしまうから精神上よろしくない。

余談だけど、人間は自分の内面と他人の外面を比べてしまうから不幸になってしまうのだって。だからSNS疲れというのが起きてしまうのだわ、と妙に納得。

近頃、ポストコロナ本の出版ラッシュのようなものが起きているらしい。私にもその余波がほんのわずかながら届いている。

昭和45年11月25日

Mishima

歌舞伎の本を読むうちに、たどり着いた一冊。今年は三島由紀夫と東大全共闘の討論会が映画になったから、というのもあって読んだ。

この本は、三島事件が起きた昭和45年11月25日に、三島由紀夫とつながりのあった文壇、メディア、演劇&映画界、政界の「人々の反応」だけを集めている。故人とのつながりは濃いのから薄いのまでいろいろで、「いかにも」な人々から、ユーミンやいかりや長介までも網羅されている。盾の会の制服は西武百貨店で誂えたとか、三島由紀夫は『あしたのジョー』の大ファンで、心の残りがあるとしたら、その最終回を読めなかったことかもしれない、などのトリビアもいっぱい。これが私のツボにはまった。

無数に取り上げられている「人々の反応」は文章として記録に残っているものを引っ張ってきているだけなので、別に著者は執筆のために誰にもインタビューしていない。三島事件が起きたあの日、誰もが何かを語らずにはいられなくなってベラベラしゃべっていたのだけど、だいたい1人につき2、3ページにまとまっているので、「誰だこれは?」と思う人がいても気にならない。その辺はネットで調べながら見るのもヨシ。

誰もが何かを言わずにいられないっていうのは今のコロナ禍の状況に似ているね。

私は大学1回生の夏休みに三島由紀夫の本をいっぱい読んだ。久しぶりに読み返してみようかなと本棚を探したけど、1冊も見つからなかった。引越が多かったので、きっと人にあげたか、寄付したか、古本屋に売ったか。なので、またアマゾンでポチった(ポチポチポチポチポチ…… と7冊ぐらい)。

大地の子3&4

不要不急の外出を控える生活が続いているので、「時間があるときにやろう」と思っていたことを順番にやっつけている。『大地の子』の3&4巻もやっと読んだ。後半は時代が1985年ぐらいになり、もうちょっと身近な話になってきていた。小ネタでちょっと驚いたのが、中国がまだ日本からの経済や技術支援を受け、巨大な製鉄所を上海に建設しているときに、内蒙古の製鉄所では、中国の援助でタンザニアからの実習生が技術を学んでいたこととか、ソ連からの支援で建てられた製鉄所が、中ソの関係悪化でソ連に放置されたこと。

それにしても、これを読み終えるまでの道のりは長かった。テレビドラマにはなかった、主人公の妹「あつ子」が受けた虐待の詳細が3巻に書かれていて、読むのがつらかった。

中国残留孤児の宿命は、日本で生まれ育ち、そのままそこで骨を埋めるつもりの人、あるいは、途中海外で暮らすが、母国である日本に戻るオプションが当然のこととして残されている人には、わかり得ないのかもしれない。「日本に帰りたければ帰ればいい」と他人は簡単に言うだろうが、本人たちはそんな簡単には踏み切れない。心のどこかで「戻りたい」と思っても、不可抗力が働いて、「さあ、帰ろう」とはなかなか思えない。実際に行動に移すとしたら、それは経済的困難や被差別階級から抜け出したいなどの現実的な事情が後押ししているだけだと思う。かの国でどんなひどい差別を受けようと、長年かけ、そこで生き延びていく方法を身に着けた人々には、「どこへ帰るのか」と聞かれたり、「帰れ」と言われたりすることは、非常につらく、一生かけても答えが出せないような深いことなのだと思う。また、母国に帰ったとしても、またそこでも困難は待ち受けているはず。前にも書いたかもしれないが、山崎豊子がこんなにも長々と日中の歴史や製鉄技術をめぐる国際協力を書き、最終巻でページ数も残りわずかになってからやっと、主人公の陸一心に「私は大地の子です」と言わせて話が終わるのは、本当にすごい。たぶん、山崎豊子が一番言いたかったのはそれだったと思うから。

私も海外生活が長くなるにつれ、こんなことをぼんやりと考えるようになった。私も実際は「移民」なのだけど、なぜか自分は違うと思っていた。でも、どこかでうっすらと母国であるはずの日本との隙間を感じるようになっている。歴史に翻弄されたわけでもない、自分の意志で海外に出た人間でも、こんなふうに思うようになる。

コロナ禍のせいで、妙なことを考える時間が増えてしまった。