Nomadland

先週のアカデミー賞授賞式は、ツイッターで追いながら、友達とチャットするという形で参加しました。ノミネートされている作品のうち半分も見ていなかったし、なんといっても、どの映画も映画館で誰かと一緒に見なかったというだけで盛り下がること甚だしかったです。ちなみに私は、『Promising Young Woman』と『Pieces of a Woman』推しでした。どっちも女の人が共感しやすい内容です。

アカデミー賞授賞式の翌週、『Ammonite』と『Portrait of a Lady on Fire』についてクラブハウスで語り合いました。そのときに、オスカーにノミネートされていた他の映画が話題になって、『Nomadland(ノマドランド)』 を見ました。フランシス・マクドーマンドが 「できるだけ大きな画面で見てね」と言っていたのがわかる気がします。

あの映画で描かれているノマド暮らし、しがらみのない生活をどう見るかは、意見の分かれるところですが、私は「絶対に無理派」です。決定打は、「誰の世話にもならないんだから、排泄物の処理も自分でやらなきゃね」とおばさんが巨大なバケツを持って説明しているシーンでした。むしろ、「そっか、そういうことは行政が税金でやってくれている」と改めて気づかされました。自らあの生活を望んだ人々は、ハイジの「おんじ」と同じ精神を共有しているのかもしれません。おんじの暮らしはアニメだからこその美化があって、私は喜んで見ていましたが、あれが実写だったとしたらどうだろう…… と思ってしまうのです。私は逆に、仙人のような生活や、コミューンやキャンプ生活で強いられる諸々のことが苦手なのです。

イタリアのヴィットリオ・デ・セータという人が作った短いドキュメンタリーが大好きなのですが、そのドキュメンタリーの題材になっている1950年代のイタリアの農民や漁師、羊飼いの生活と、ノマドランドの人々の生活はかなり似ている気がしました。ヴィットリオ・デ・セータの短編ドキュメンタリーを「詩」と捉えるなら、『ノマドランド』は「小説」かな。あの映画のノマド暮らしをする人の中には、自分の意志であの生活を選んだ人もいれば、何かをきっかけに転落してあそこに行き着いた人がいて、農民や漁師、羊飼いとはわけが違い、何かしらの物語があるわけです。