いろんなことがめんどうくさい気分

長期間休みなく働いたせいなのか、急に静かになって、投げやりな気持ちになっている。本を読んでも、映画を見ても、散歩しても、ピアノを弾いても、なんかもうひとつ面白くない。

私は、これまで大してツイッターをやってこなかったのだけれど、最近、いつもより頻繁につぶやいたら、もらい事故が発生。コレ↓

やたらポジティブ思考で悪かったな。

著名人からの流れ弾だったので、私からしてみると恐ろしい数の人がこのツイートを目にした。私のつぶやきの内容に同意してくれる人が半分、「なんだこのお花畑系のやつは!?」と思った人が半分といった感じ。これが短文投稿の世界の現実……。実を言うと、私がネット世界で「お花畑批判」を受けたのはこれで2回目。1回目はニットで募金活動を始めたとき。どちらも面識のない人からの批判であることに注目したい。

さて、このブログには、私が前向きな気持ちになれた経緯を書き残しておこう。

先週、ジュリエット・カーペンターというアメリカの日本文学の翻訳者(結構なお年の大御所)の公演にズームで参加したときのこと。参加者の誰かが、「専門にしている分野ってありますか?」と質問した。それに対し、ジュリエットはこう答えた。

「専門分野って…… 何も自分の可能性を狭める必要はないでしょう?」

さらに彼女はこう続けた。

「安部公房の小説が訳したいからって、安部公房の本しか読まないわけじゃないでしょう。いろんな本を読むわけでしょう?」

彼女は仏教の専門書も訳すらしく、そのときは仏教の専門家の助けを借りている。翻訳者には、編集者という陰の功労者が付いているから、最終的に訳文が磨かれるのは、編集者や専門家のおかげだとも言っていた。まさに。自分が書いた訳文を世間が目にする前に、推敲を手伝ってくれる人々がいるからこそ、世に出せる。つまり、翻訳者とは翻訳の専門家だということ。もちろん、専門知識があれば大いにプラスになるし、そのための勉強もする。

他の訳者がどうなのかは知らないけれど、私は自分から訳書を選ぶ立場に立ったことがない。まず翻訳予定の原書があって、それを「翻訳しませんか?」と打診される。あるいは、試訳を提出して、何人かの訳者と競い選定される。むしろ、「そろそろ、これくらいのレベルの本を一人で担当できますよね」と成長の機会を与えられる。

ノンフィクションの形をとりながら小説みたいなストーリー性の高い本なら訳した経験があって、いつか小説を訳したいとは思っているけれど、まだ声を掛けられたことはない。つまり、自分の能力を顧みずに本の翻訳を引き受けたことは一度もない。そもそも私は翻訳界の片隅にしかいない。私のようなポジティブ思考の人間が、その思考回路だけで「アマンダ・ゴーマンの詩を訳したい」と挙手しても、出版界や世間が認めない。

後で調べて気づいたけど、ジュリエット・カーペンターは私の母校の先生だった。在学中に既に教鞭をとっていたらしいけど、覚えていない。川端康成の『雪国』を訳したエドワード・サイデンステッカーに師事して翻訳を学んだ時代の人だ。日本文学を訳せる人がそれほど多くなかった時代に、作家や分野を問わず、積極的に何でも翻訳に取り組んだ人の言葉に私は感銘を受けた。

ちなみに、件のツイートは削除していない。プチ炎上しても24時間以内に鎮火することを身をもって知った。

アマンダ・ゴーマンのオランダ語訳騒ぎ(その2)

結局、私と似たような温度で世の中を眺める人々(トリビア好き)から面白いヒントを教えてもらい、オランダについてというか、ブラックライブズマターに関してというか、にわかに私なりの興味が湧いてしまった。

件の記事を目にしたときは、まず最初に、「これって、オランダの歴史の問題じゃないの?」と思った。でも、私はオランダの歴史も現在もよく知らない。つい、チューリップやオレンジ色を思い浮かべてしまう。

まず、オランダの歴史。南アフリカやインドネシアなど、結構手広く植民地を持っていた。その辺は検索して調べれば「ほほう、そこも?」なんて思えるほど数多い。結局のところ、旧植民地帝国がみなそうであるように、昔の植民地から人が流れ込んでいる。モロッコからスペインに入り、EUの中では、移民にとって自由で住みやすいオランダに落ち着く黒人移民が多く、今はオランダの全人口の3%から5%程度を占めているらしい(統計によってばらつきがあるとのこと)。

では、ブラックライブズマターの発祥地、アメリカの黒人人口はどれくらい? 南米からやってきたヒスパニック系の黒人と別々に統計を取るようだけど、13%くらい。じゃ、私の住んでいるカナダは? とカナダ統計局のサイトで調べると、3.5%。つまり、統計的にカナダとオランダは同じくらい。でも、都市部と田舎とでは肌感覚が全然違うはず。

そこで日本。黒人系日本人は人口動態グループとして成立しないくらい少ないので、公式データがないらしい(八村塁のような著名人はいるけれど)。(追記:日本は「人種統計」をとっていないと指摘を受けた。)

乱暴だけど、人口3%という数字は、ブラックライブズマターのような抗議運動が「対岸の火事」ではなくなるってことなのかしらん??? 日本語の翻訳者がブラックライブズマターの活動家に仕事から降ろされるなんて、統計的にありえないもんね。

今回のことで私が何より驚いたのは、「訳者」はもともと影の薄い存在で、小説家ですらないのに「降板させられる可能性がリアルに出た」点。訳すべき本も出版社が選ぶのが普通。しかも、出版界という斜陽産業での影の仕事なので、「そんな将来性のない仕事、欲しいですか?」という謎。誰もやらなくなる仕事だから移民がやりやすいとか? オランダでは翻訳者の社会的地位が高いとか? 私は英語と日本語の記事しか読めないからわからないんだけど、このオランダの出版社がこの訳者を擁護するために強い声明を出したのかどうか? だって、訳者の立場から言わせてもらうと、肌の色関係なく、守ってほしいじゃないですか(仕事少ないから)??

……というようなことを私は誰かと話したかった。特に同業者と。でも、SNSだと瞬発力はあってもゆっくりは話せないことを身をもって感じた。SNSよりブログのほうが私には合ってる、やっぱり。そして、この件に関しては十分考えたので、もうおなか一杯です。

ちなみに、私は別にアンチ・ブラックライブズマターじゃないですよ。むしろその根幹部分には同情を寄せてます。ただ、どんな抗議運動でも、ぶわーっと広がると、押し返したくなる要素が出てくる。

『シンタクラース』というサンタクロースにそっくりなお祭りがあることも教えてもらった。にわかにオランダに行きたくなってきた。

アマンダ・ゴーマンのオランダ語訳騒ぎ(その1)

世の中の多くの人は詩には興味ないかもしれない。ここ何年かで爆発的に売れた詩人といえば、カナダのルピカウルだけど、彼女とて、マルチタレントぶりを発揮してるので詩作が専業とは言い難い。今は、詩を書いている人はいても、詩集を買う人はすごく少ないのではないか。わりと詩を読むのが好きで、詩集をいろいろ持っている私でさえ、最近買っていない。そんな世の片隅に追いやられている詩がニュースになり、しかも翻訳がらみとあって、私はエキサイトした。が、いかんせん、「アマンダ・ゴーマン」の名前がリベラル、バイデン政権とつながっているため、私がエキサイトした理由とは無関係に政治化してしまった。面白くもなんともない。実につまらない。人々は自分の政治的信条にのっとり個人的意見を述べる。

私は政治の話などしたくない! アマンダ・ゴーマンについて語りたいのではない!  

事の経緯はこう。

1)オランダの出版社がアマンダ・ゴーマンの詩集を出版するにあたり、白人の若い女の子(マリエケ・ルーカス・ライネベルト)を訳者に選ぶ。ライネベルトは小説家。たとえれば、日本の出版社が川上未映子に翻訳を依頼するみたいなもの。

2)その訳者が活動家たちのバッシングに遭い、仕事を辞退する(黒人の訳者を選べ、という抗議があった)。

3)オランダの出版社は別の訳者を探すと言っている。

4)そうこうするうちに、マリエケ・ルーカス・ライネベルトが「反論の詩」を引っ提げて、世に公開する。

私はいろんなことが気になったが、いかんせんオランダのことなど普段考えもしないので、オランダに関する知識が少なすぎた。私の気になったことは、こんな感じ。

1)オランダって白人ばっかりのイメージがあるけど、活動家に訳者が引きずり降ろされるほどの黒人人口を抱えている?

2)私は白人著者(この間はインド系イギリス人)の翻訳ばっかりしているけど、何も言われない(肌の色が問題視されない領域で働いている)。

3)結局、この訳者が仕事を失うという結末はひどくない?!

4)何の訳書を出すのか、誰に翻訳してもらうのかは出版社が決めることなので、オランダの出版社はこの訳者を擁護する強い声明を出したのか?(オランダ国内ではそういう報道があったのかもしれないけど、私が読める英語や日本語では報道がなかった)

5)出版は文化事業だけど商売なので、「この子なら、訳書が売れる」と思って選んだ訳者だったんでしょう?

そこで、自分のFBに投稿した後に、「そーだ! 翻訳者コミュニティがあるじゃないか、あそこに投稿したらもっと何かインサイダー的な面白いこと聞けるかも?!」と思った。しかし、政治的に受け止められたくない。そこで、ちょこちょこと書き添えて投稿してみた。

結果的に反応は薄かった。質問の仕方が悪かったのかも。想定内ではあったけど、「そもそも詩人としてのアマンダ・ゴーマンを認めない。詩人としてより商売がうまい」的な発言もあった。商売上手のレベルでいえば、ルピカウルのほうが100万倍くらいすごいけど。私の心の中では、真っ赤なサイレンがグルグルと回った。そんなことを話したいんじゃない!!!

ま、これがインターネットの世界というものなのですが。

で、結局私が何を話したかったのか、何人かの人がヒントになるような答えをくれたので、それは後日書くことにする。自分と同じ温度で世の中のことを話せる人々というのは、家人を含め、ごくごく限られているのだと実感した次第…… こういう話をするのに、いいグループないですか? 知ってたら招待してください。

マリエケ・ルーカス・ライネベルトの「反論の詩」はこれ。

https://www.theguardian.com/books/2021/mar/06/everything-inhabitable-a-poem-by-marieke-lucas-rijneveld?fbclid=IwAR2HfpyB2DKe2Hqpd_YS6evmeQVhpNnPRXmYcuHjTTuG6qlHlCTrw-u5hPc

大統領就任式の詩の朗読

アメリカ大統領選の開票日は私にとって大イベントですが、就任式を見るのも一大イベントです。就任式はライブで見ていても、見るべき対象物(人)が多すぎて見過ごしがちなので、SNSで人々が何をつぶやいているのかも見ます。ま、それはさておき、今回は異例なことだらけの就任式でしたが、何事もなく終わりほっとしました。

私にとって印象的だったのは、アマンダ・ゴーマンの詩の朗読。それまで存在さえ知りませんでしたが、あの黄色のコート、あの真っ赤な太いカチューシャ、耳元にきらきら光るイヤリング、華奢な指に大きなリング、そしてメイク、というあの強烈なビジュアルがまずあって、あの手の動き。あの詩。あの朗読の仕方…… そしてあの若さ。「表現者」とはこういう人のことを言うんだなと感心しました。

そして、『The Hill We Climb』というタイトルのあの詩。人間は一生かけて山あり谷あり、矛盾や葛藤に満ちた人生を送るわけですが、やっぱり中年にもなれば「水平飛行」を好みます。あの詩は、彼女と同じように若い世代が聞くと喚起される感情がまったく違うのではないでしょうか。コロナでうまいこと乗り切っているのは中年や前期高齢者、バサバサと解雇されているのはやっぱり若い人たちです……

流れるような手の動きと言葉、それにリズムが一体になって、もう言葉の意味さえ咀嚼する間もなく感情を揺り動かされる、あの感じ…… 一億総勢、情報発信者になっている世の中だけど、みんな理屈っぽいし、どっかから引っ張ってきたような、誰かの真似をしているような、理屈か感情論しかない今。そんな中、「理屈じゃだめ、感情だけでもだめ、しったかぶりもだめ、ゴリゴリ一方的なのもだめ、何かを伝えるって、こうだと思う」と身をもって示してくれた気がします。

今も選挙結果を疑う人が多くいる接戦だった大統領選で、もしも逆が勝利していたら、おそらくアマンダ・ゴーマンの朗読したような言葉はなかった可能性が強いことを思うと、とりあえずこれでよかったと私は思いたいです。