St Lawrence Seaway

セントローレンス海路というのを皆さんはご存知ですか? カナダ東部の大西洋、ニューファンドランド島からセントローレンス川を通ってケベック、トロントなどを通過し、五大湖をつなぐ長い海路のことです。「海路」といっても途中からは淡水になるのですが……

水位は五大湖のほうが高いので、スペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖の水が、ナイアガラの滝からオンタリオ湖に流れ落ち、セントローレンス川を流れて大西洋に注ぎ込みます。ですから、途中いくつもの運河や水門があります。

この海路の完成は1959年で、モントリオール、トロント、デトロイト、クリーブランド、シカゴをつなぐ物流網を形成しました。しかし、だんたんとコンテナやコンテナ船が大きくなり、運河や水門を通れなくなり、廃れていったのです。

ところが、このコロナ禍で、巨大コンテナ船がカリフォルニア州のロサンゼルス港に荷下ろしができなくなり、物流が滞りはじめると、このセントローレンス海路が見直されるようになりました。

小さめのコンテナ船に貨物を積み替えなければならないのでコストが高くつくのですが、それでもロサンゼルス港で船が待ちぼうけを食らうよりは、こちらのほうがよいのだそうです。ただし、カナダからどんどんとアメリカに物資を運び込めるわけではなく、アメリカの国土安全保障省が全貨物をスキャンしなければなりません。そのスキャナーは、オハイオ州のクリーブランドにあるのだそうです。

セントローレンス海路は、17世紀半ば、モントリオールにラシン運河が建設されたことを起点にしていて、300年の歴史があります。その後、ケベックのフランス領がイギリスの支配下に置かれ、18世紀になるとイギリス軍の工兵たちの手によってモントリオール周辺の運河が整えられていきます。19世紀、英米戦争に決着がついてからは、さらにイギリスによって工事が進みます。ようやくアメリカとカナダの共同開発が行なわれるのが決まったのは、1909年のこと。2つの世界大戦や大恐慌の間は工事が進まず、第二次世界大戦後、一気に海路の開発は進んで、1959年に完成となりました。

カナダ植民地時代の歴史を反映して作られた海路ですから、先住民の土地を奪ったり、フランス、イギリス、アメリカが海路を抑えるために戦ったりと、黒い歴史を抱えているのですが、今は物流網としてだけでなく、ここをヨットで優雅に旅する人々もたくさんいます。この海路の歴史を綴った本はいくつか出ていますし、この海路沿いに発展した小さな町を訪ね歩くなんて旅行もいいかもしれませんね。

これは note に書いた記事の再録です。

白鯨 モービィ・ディック(2)

『白鯨 モービィ・ディック』を読んでいるうちに、スエズ運河座礁事故が起き、はっと気づきました。『白鯨』が刊行されたのは1851年、スエズ運河開通は1869年、パナマ運河開通は1914年なのです。 『白鯨』 には、南アフリカの喜望峰沖は世界中の船が行きかう「四辻」だという描写が出てきます。この小説に出てくる捕鯨船はすごく遠回りをして世界の海を航海しているのです。鯨の漁場に向かうので、ひょっとしたら、これらの運河が開通していたとしても、遠回りしているのかもしれませんが…… 

ついでに調べると、飛行機が発明されたのは1903年。鉄道が本格的に敷かれるようになったのは1830年代。『白鯨』が書かれた時代はほぼ船を中心に世界中の物資が行き交っていた、ということです。

他にも、『白鯨』には、北米大陸にあった聞きなれない運河の名前が出てきました。「エリー運河」です。マンハッタンのハドソン川から、ニューヨーク州北部ローチェスターなどを通って、エリー湖につながる運河です。今は、ほんの一部しか残っていません。水路は、物流網であり、情報網でもあって、2020年代の5Gみたいなものだったのかもしれませんね。エリー運河は、セントローレンス川を経由して大西洋と五大湖を結ぶ「セントローレンス海路」が出来たために廃れました。そのあおりを受けて、ニューヨーク州北部の一部は経済が疲弊し、代わりにセントローレンス川沿いと五大湖につながるカナダの町が栄えていったようです。カナダの鉄道網の発達も、水路に関連しているのでしょうからすごいですね。いやあー、『白鯨』からカナダの発展史につながるとはね!

引き続き、心に留まったことをツイッターでつぶやきながら読んでいます。「#モーヴィ・ディック」で検索してみてください。