読書会12 – 私の名前はルーシー・バートン

3月の読書会の課題書は、エリザベス・ストラウトの『私の名前はルーシー・バートン』(小川高義訳)。1980年代のニューヨークが舞台で、イリノイ州の田舎で暮らした過去にフラッシュバックしたかと思えば、フラッシュフォーワードもする。

とても貧しい幼少時代を過ごした、主人公のルーシー・バートンは一家の中で唯一大学に進学し、結婚して子どもを産み、小説家としての才能を開花させ、ニューヨーク市に住んでいる。ところが病気で長期入院することになったため、田舎から母親が付き添いとして5日間だけ病院に寝泊まりする。田舎で貧しいまま暮らした母親と、都会で作家として成功しはじめた娘の会話は、水面下でぎくしゃくする。

ルーシー・バートンがイリノイでどういう暮らしをしていたのかは、少しずつ明らかになるが、深くは掘り下げない。貧しさのせいで欠落しているものを抱え、親の愛がいびつで、虐待を受けたルーシーの過去は少しずつあぶり出される。

読書会では、現在過去未来を行ったり来たりするストーリーの流れのなかでルーシーの過去を拾い集めたものを披露し合うように、「つまり、ルーシーは……?」と話し合ったのが興味深かった。

2回目の読書会で読んだ『わたしはイザベル』も、貧困に由来する母娘の虐待関係を描いた話だったことを読書会仲間が思い出させてくれた。どちらも虐待関係を乗り越えて、「私はXXXXXだ」と自分を改めて名乗りなおすのが共通点。『わたしはイザベル』は作者自身の体験だから、名乗りなおした「その後」は世間が知っている。一方の『私の名前はルーシー・バートン』は架空の人物。作者が作中で「ルーシーのその後」を書いているので、読者はルーシーがどういう道を歩んだのかを徐々に知る。

母と娘ってむずかしい。

次は、この読書会では初めての和書を読む!

読書会11 – しずくの首飾り

2月の読書会の課題書は、ジョーン・エイキンの『しずくの首飾り』(稲熊葉子訳)。「収録されている話のうち、どれが好き?」というありきたりなふりから、どんどんとダークな方向へ会話が進むのが面白かったです。子どものために書かれた話は人間の闇を引き出しますよね。

ジョーン・エイキンを読むのは初めてだと思っていたのに、どの話も聞いたことがあるような既視感がありました(読んだことを忘れている可能性もある)。どれもすてきで、ちょっと苦みのある話ばかり。表題の「しずくの首飾り」には、少女時代に必ず遭遇する嫉妬心の強い、いけずな女の子が登場します。いえ、誰もがそういう意地悪になる時期があると言ったほうがいいでしょう。

「空のかけらをいれてやいたパイ」は、空飛ぶパイが、途中、いろんな動物を拾っていくお話。最後は巨大な動物が乗り込んで、みんなでにぎやかに飛んでいく。動物どうしだと落とし合いが起きないのも、王道的なシャングリラ。

「三人の旅人たち」は、砂漠の中の駅で働く三人の男の話。駅としての施設は整っているのに、電車がとまらず、誰も乗り降りしないという設定が、「どこか遠くへ行きたい」という気持ちをかき立てます。

「たまごからかえった家」は、バーバ・ヤーガというスラブ民話の魔女が住む家に似ていると、読書会の人たちが言うので、みんなでウィキペディア検索。フィンランドのサーミ人が住んでいた高床式の家にそっくりで、民話はいろんなところへ伝わって少しずつ形を変えていくのだなと実感。

影絵みたいな絵は、ヤン・ピアンコフスキー。

私はさらにジョーン・エイキンの『ルビーの詰まった脚』(三辺律子訳)も読んでみました。こちらは一篇がもう少し長めで、対象年齢が上。『秘密の花園』くらい?? 怪奇要素があって、なかなかよかったです。表紙絵はさかたきよこさん。私、さかたさんが絵を付けたこけし持っててファンです。

みなさん、本にお金をつぎ込んでいるので、最近、「こっちの本のが安いね」と値段で課題書が決まることが多いような(笑)

読書会10 – トム・ソーヤーの冒険

2023年は、古典中の古典『トム・ソーヤーの冒険』で始まり! 翻訳界の大御所がいろいろな訳を出しているので悩みましたが、私は光文社古典新訳文庫で。読書会では、土屋京子訳と柴田元幸訳に分かれました。

時代設定は1840年代のアメリカ。書かれたのは南北戦争後。というわけで、当時の差別が描かれ、差別用語も使われているのですが、あとがきで説明があります。私は差別語はできるかぎり、当時のまま使って、あとがきなどできちんと解説するのがいいと思う派です。

今回私が読んだのは抄訳や編訳ではない、本家本元の『トム・ソーヤーの冒険』だったので、難しそうな言葉がたくさん並んでいるのに驚きました。「これは、大人向き?」と不思議に思いつつ読み進めていくと、「訳者あとがき」に訳語・訳文についての説明ありました! 原文がそうなんですね。

現代の冒険譚に慣れてしまうと、トム・ソーヤーの「冒険」ってなんかしょぼいと感じてしまうのですが、時代背景をいろいろと考えさせてくれるので、大人になってからでも楽しめるなと思いました。私にとってツボだったのは、呪術をみんなが真面目に信じてるところ。口伝にまことしやかに情報が伝わって、伝わり方も曖昧な上、内容も曖昧な情報の交換でマウントを取り合っている様子が、今と変わらない!

あとで小学校2年生の姪っ子が大好きな学研の「10才までに読みたい世界の名作シリーズ」の『トム・ソーヤーの冒険』も読んでみました。いやぁ、こちらもいい。編訳の段階で何を切り捨て、何を残したのかがよくわかり、編訳という仕事の難しさ(ありがたさ)を知りました。私もこのシリーズ、大好きです。忙しい大人が読んでも勉強になります。10歳未満の子たちが喜んで読んでるのもわかる! 短くはしてあるけど、全然手を抜いてない!

読書会9 – 歩道橋の魔術師

今月は呉明益の『歩道橋の魔術師』。この本がお題に選ばれたのは、明治書院の高校生用の国語の教科書に、この小説が収録されたという話をメンバーさんが教えてくれたから。掲載されるのは表題作だけらしいですが。

この読書会で呉明益作品を読むのは今回で2冊目。1冊目の『雨の島』と同じように、短編がいくつも収録されていて、本全体を貫く要素がある。たとえば、どれも昔台北にあった中華商場が舞台になっていて、そこで育った子どもたちの視点、その子どもたちが大人になってからの視点で語られている。狭い空間しか知らない子どもの世界の端っこには魔術師がいて、子どもたちの人生の転機にマジックを使い、その世界に穴を開ける。そして、どの短編も暗く、大人に成長した子どもたちは幸せそうではない。全体にたなびくような不幸感が、エドワード・ヤンの映画みたいだと思った。

電子版の『歩道橋の魔術師』には、天野健太郎訳に、及川茜訳の短編が一つ追加されていて、1冊で二人の訳者の訳を読めるのもうれしかった。特に、いちばん最後に収録されている、及川さんが訳された双子の話が、「二つの中国」に二枚舌を使う「外国」、あるいは、「中国が二つある状態」に対する決断を保留し続ける「台湾」の話のように読めて興味深かった。

天野健太郎の訳者あとがきに加え、東山彰良の解説もあって、こちらも読みごたえがある。私が『歩道橋の魔術師』に出てくる中華商場の存在を初めて知ったのは、東山彰良の『流』を読んだときだった。

読書会8 – ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ

先月はコロンビアの小説だったけど、今月はスペインで、キルメン・ウリベの『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』(金子奈美訳)。といっても、もとはバスク語で書かれた小説。

私はバスク語もバスク文化も知らない。かろうじて、「この辺がバスク地方」と地図で指させるのと、フランコ政権による弾圧の歴史があって、独立を目指す過激グループがいたことを知っている程度の知識しかない。

でもそんな予備知識は不要かも。バスク地方に生まれた主人公(つまり作者)は、バスクの大きくて重い歴史など背負っていない。主人公は、バスク人なのになぜかフランコ側についていた祖父のことを知ろうとするが、過去を遡っている間に、いろんな人から聞いた思い出話を断片的に、芋づる式に次から次へとひっぱってくる。いたって個人的な語りは、「結局何の話が始まるのかな?」とこちらが不安になるほどだ。ただ、ひとつひとつの思い出話に余白があって、妙に興味深く、グーグルマップでうんと拡大しないと見えないような、小さな島々の話も出てくる(セントギルダ島やロッコール島。ロッコール島なんて岩だもんね)。そういう世間には無視されがちな話を、主人公はニューヨーク行の飛行機の中で振り返る。

読みはじめて3分の1くらいまでは、フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』みたいな話なんだろうか?と思って読んでいた(映画の構想を練りたいけどアイデアが浮かばないって話)。登場人物がやたらと多く、あとで重要になるかもしれないからメモっとこ…… なんて努力は途中でやめた。「なぜそんなにディテールをがっつりと掴みにいこうとするんだ? もっとリラックスして読めば?」と自分に注意を促すほどだった。

「面白いかも?」と思いはじめたのは、半分をすぎてから。誰かの心をえぐって見せるような書き方でないのが心地よい。たまたまバスクに生まれた男の人が、自分の系譜をさかのぼりたい気持ちが、中年の私にはちょっとわかる。もしかしたら、自分の居場所の確認なのかも、とも思った。

それと同時に、こういう少数言語を操る人々やその人たちの文化を「底上げしてくれる場所」として、ニューヨーク・シティが登場するので、やっぱりニューヨークを見直した。

しょっぱなから、ぐいぐいと読者(あるいは視聴者)の興味をひきつけるものが多いなか、感情がじわじわとあとから押し寄せる書き方が好きになった。でもそれは、読書会でメンバーの感想を聞いて、そう思えたところも大きい。読書体験を後押ししてくれる読書会や書評ってのは重要だと思った。

にしても、明確な起承転結はないから、ストーリーにぐっと引き込まれたい人には向かない小説かも。