Nomadland

先週のアカデミー賞授賞式は、ツイッターで追いながら、友達とチャットするという形で参加しました。ノミネートされている作品のうち半分も見ていなかったし、なんといっても、どの映画も映画館で誰かと一緒に見なかったというだけで盛り下がること甚だしかったです。ちなみに私は、『Promising Young Woman』と『Pieces of a Woman』推しでした。どっちも女の人が共感しやすい内容です。

アカデミー賞授賞式の翌週、『Ammonite』と『Portrait of a Lady on Fire』についてクラブハウスで語り合いました。そのときに、オスカーにノミネートされていた他の映画が話題になって、『Nomadland(ノマドランド)』 を見ました。フランシス・マクドーマンドが 「できるだけ大きな画面で見てね」と言っていたのがわかる気がします。

あの映画で描かれているノマド暮らし、しがらみのない生活をどう見るかは、意見の分かれるところですが、私は「絶対に無理派」です。決定打は、「誰の世話にもならないんだから、排泄物の処理も自分でやらなきゃね」とおばさんが巨大なバケツを持って説明しているシーンでした。むしろ、「そっか、そういうことは行政が税金でやってくれている」と改めて気づかされました。自らあの生活を望んだ人々は、ハイジの「おんじ」と同じ精神を共有しているのかもしれません。おんじの暮らしはアニメだからこその美化があって、私は喜んで見ていましたが、あれが実写だったとしたらどうだろう…… と思ってしまうのです。私は逆に、仙人のような生活や、コミューンやキャンプ生活で強いられる諸々のことが苦手なのです。

イタリアのヴィットリオ・デ・セータという人が作った短いドキュメンタリーが大好きなのですが、そのドキュメンタリーの題材になっている1950年代のイタリアの農民や漁師、羊飼いの生活と、ノマドランドの人々の生活はかなり似ている気がしました。ヴィットリオ・デ・セータの短編ドキュメンタリーを「詩」と捉えるなら、『ノマドランド』は「小説」かな。あの映画のノマド暮らしをする人の中には、自分の意志であの生活を選んだ人もいれば、何かをきっかけに転落してあそこに行き着いた人がいて、農民や漁師、羊飼いとはわけが違い、何かしらの物語があるわけです。

L.A. Timesの『一人称単数』の書評と『Promising Young Woman』

4月はじめだったと思いますが、アメリカの新聞各社が村上春樹の『一人称単数』の書評を出していました。中でも、L.A. Timesの書評はもはや書評の体になっていない悪口でした。どのくらいの酷評なのかというと、村上春樹を「女嫌い」呼ばわりし、ユニクロとのコラボでグッズ販売していることまでけなし、もう本の話ではなかったのです。たとえば、アマゾンのコメント欄に、読者が本の梱包や配達に対する不満を書いて、星★1個の評価をし、本の全体的な評価を押し下げているケースが散見されますが、 L.A. Timesの書評もそれに近いものがありました。

それに比べると、ニューヨークタイムズの書評は、英訳者へのリスペクトも込められていて、8つの短編に合わせて「村上春樹の8つの見方」と多面的に評価しています。しかも、今の村上春樹は「西欧のある時期の文化の影響を強く受けた日本人作家」として見られているので、世界的に人気があるけれど、そういう彼を好まない人たちもいる、と書いています。ま、この2つの書評しか私は読んでいないんですが、L.A. Timesの書評と比べれば、そもそも質が段違いによいですよね。書評家なら、やはり「本」を評価してほしい。 L.A. Timesのあの書評が炎上狙いであったことは、あれを書いた女性書評家のツイッターを見ると、なんとなくうかがえました。

しかしですね、キャリー・マリガン主演の『Promising Young Woman』をご覧になりましたか? この映画は、学校で起きるレイプ事件に『危険な情事』的な恐ろしさを感じさせる内容です。学校で起きる性犯罪は、加害者も学生だった場合に「若気の至りだ/酔っていたから正気ではなかった」という言訳がついてまわり、うやむやにされがち。この映画が流行った2020年のアメリカを考えると、 L.A. Timesの書評が許される土壌はあったのかなと思います。『一人称単数』は、「僕」が若かりし頃に関わり合った女たちを回顧する内容で、「僕」は、それなりの関係があった女たちを「名前が思い出せない」などと言いながら、淡々と語ります。つまり、「僕」の記憶の中では、女たちがのっぺらぼう化しているので、アメリカの先鋭的なフェミニストは、村上春樹に対して「この野郎!」と思うのかもしれません。しかも、「僕」は限りなく本人っぽく書かれていますから。

でも、人は回顧するとき、自分と関わりのあった人々の全容を鮮明に思い出せるわけはなく、ぼんやりとしか思い出せない乳白色な部分や、記憶がすり替わっている部分があります。むしろ、そういうほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。『Promising Young Woman』の中でも、当事者たちの記憶が抜け落ちていたり、薄らいでいたり、主役の記憶ですら、ひょっとしたら「絶対に忘れたくない」という強い思いから、一部の記憶が自己強化しちゃってる可能性もなくはない。

そんな『Promising Young Woman』ですが、一回見終わって結末を見た後に、「ひょっとしてあれも、これも、計画の中に織り込まれていた??」と疑問が次々に湧いてきました。もう一回見なければ! これについても、誰かとちょっと話し合いたいです。←パンデミック前なら、映画を映画館で観た後に、一緒に行った人々と話し合えたんですよ。今は、それをクラブハウスでやっている人たちを見かけるんですよね。

The Crown、再び

先週、メーガン妃とハリー王子のインタビューがあった。見る気満々だったのに逃した。

1週間後、アメリカのメディアでよくインタビューをする人々がクラブハウスで集まり(ケイティ・クーリックもいた)、オプラのインタビュアー能力をどう評価するか、話し合っているのを聴いた。概ね高評価だった。特に、オプラはあのカップルを個人的によく知っていて聞きにくいことも結構あったのに忖度しなかった点や、現代のアメリカ人視聴者が気になるところ(人種問題とメンタルヘルス)をよく引き出していた点が評価されていた。ダメ出しもされていたが、それは「イギリス王室や歴史」に対する知識が足りない、というもの。私はインタビューを見てないから、なんとも言えないけれど、結構突っ込んだインタビューのテクニックにまで話はおよび、ほう…と関心を持って聞いていた。

ここのところ、メーガン妃とハリー王子の王室離脱、フィリップ殿下の入院などが重なり、私の周辺ではイギリス王室が熱い。そこで『ザ・クラウン』をもう一度、最初から全部見た。『ザ・クラウン』のシーズン1の肝は、25歳の若きエリザベス女王とともに、そもそも「君主とは何なのか」を視聴者が知ることにある、と私は思う。現代人の目には君主といえども「等身大」にしか見えないもんね。

私がいちばん好きなのは、時代と君主制がそぐわなくなり、エリザベス女王と平民出身のサッチャー首相の確執という形で膿が一気に噴き出すシーズン4(前回見たときは、ひたすらダイアナとチャールズの行方ばかりに注目していたけれど)。サッチャーが貴族的保守派をバッサリと切り、帝国的なイギリス連邦を軽視するのも見どころだった。今はイギリス連邦のつながりを新たな経済ブロックとして捉える人もいるので、時代はどんどんと変わっていく……

シーズン4では、エリザベス女王やチャールズ皇太子以外の「王族」の処し方にもかなりつっこんでいる。見直してみると、いろんな細かいところに気が付いてしまい、「よくできたドラマだわ~」と感心。この部分が、メーガン妃とハリー王子の王室離脱につながっている。

メーガン妃とハリー王子のインタビューが放映されることになっていた日の午後、カナダではラジオ番組で「カナダ総督って必要ですか?」とリスナーからの意見を募っていた。伝統を重んじる派と、イギリスの持つ帝国的なイメージを嫌悪する派で意見は真っ二つに分かれていた。カナダで市民権を取得する場合、忠誠を誓う相手は「カナダ」ではなく「エリザベス女王」なので、移民・難民としてカナダに流れ着いた人の中には、「え? 多様性の国カナダに忠誠を誓うんではないの?」と戸惑いを感じる人もいるらしい。伝統派や現実派は、首相などとは違い、選挙で選ばれないカナダ総督の存在は重要と考える。

ドライブしながら、リスナーたちの意見を聞いていて、「みんな普段からそんなにカナダ総督のこと真剣に考えてるの?」と驚いた。時々現実派のリスナーが出てきて、「別に今はそのままでいいんじゃない? 今のクィーンが崩御したときにまた考えればいいんじゃない?」と言っていた。なるほど、決定打を待つか。そのとき、チャールズ皇太子はどう感じるのだろう? と私は心配してしまう。

個人的に私は、、、イギリス王室で慶事があるたびにカナダでも発行される記念切手をせっせと買っては、手紙好きの友人たちに送っていたので、そういうことができなくなる日が来るかもしれないのは残念。

The Dig

サットン・フー遺跡調査がこんなドラマになるとは!! わたしにとってはうれしい驚き(『忘れられた巨人』を読んだときや、ロンドンにいたときに知っただけで、古墳好きというわけじゃない)。

失われ、埋もれてしまった伝統を探し当て、発掘作業をしつつ新しい何が生まれる。伝統が重くのしかかり、権力が本気になったときの個人の無力感と、それでも勇気を出せば自分で自分の運命を決められることもあるっていう「破壊と再生」のストーリーが好き。

気になったのは、土を掘り返すという汚れ作業をしているのに、「作業服」の類を着ていないこと。動きづらいんではないか?と思ってしまったが、ジャージなんてない時代だからしょうがないのか。

サットン・フー遺跡については、こちらを読んでね。

Cobra Kai (Season 3)

新年早々からコブラ会見てました。シーズンフィナーレには必ず「ボコボコの乱闘シーン」が来るのですね。

今シーズンは中年の大人たちの「自己実現の欲求」に付き合わされて、そこが面倒くさく感じた分、高校生たちの悩みがより一層ピュアで、真剣そのもののように思えました。彼らの悩みというのは自分で選んだわけではない、むしろ親から与えられた試練のようなものなので…… でも、高校生に正しいSNSの使い方をいい年した大人が教わっている場面など、ほのぼのとするところもあったりします。

私にとって『コブラ会』の面白いところは、若い時は貧しくて純粋だったダニエルが成功者となったがために、財力をふりまわしていることに本人がまったく気づいていない点です。今回も、リッチなミヤギ道場が、またまた金に物を言わせてコブラ会つぶしにかかっていました。一応、ミヤギ道場は「善」を重んじる道場なので、何をしても許されるような感じで描かれているし、そういうことに関しては「悪」のほうがまともなのですね。だから「悪」のほうはミヤギ道場を「ボコボコにしたくなる」のでしょう。

オリジナル映画に出ていた俳優たちの同窓会のノリも、それはそれで楽しかったです。エリザベス・シューは『リービング・ラスベガス』の頃を思い出して、「へぇ……」と思ってしまったんですけどね。