読書会17 – 地下鉄道

11月はコルソン・ホワイトヘッド著、谷崎由依訳の『地下鉄道』を読みました。

「ハンドメイズ・テイル/侍女の物語」のシーズン3と4は、この小説を下敷きにしてるんじゃないか?と思わずにはいられませんでした。あのドラマのシーズン1と2は、マーガレット・アットウッドの小説を原作にしていて、すばらしいのですが、シーズン3以降は「???」と感じた人が多いんです。

『地下鉄道』は、アメリカの黒人奴隷たちが人道的な「地下鉄道組織」を頼り、奴隷制のなかったカナダに逃亡するという史実に基づいて書かれているのですが、小説の中では本当に地下鉄が掘ってある設定になっていて、エンタメっぽくなっています。奴隷制廃止前の話なので、構造的に人間以下の存在にされてしまった人々への暴力が半端ない。ドラマ化されているのをアマプラで見ようとしましたが、あとでもっと気分のいいときに見ることにします。

さて、奴隷制のような構造的差別についてですけれども……

この小説でも浮き彫りになっていますが、差別は差別するほうに問題がある。なのに、被差別者や彼らに同情的な人々にばかり、多大な犠牲が出る。ただ、差別するほうも、差別されるほうも、一枚岩ではなく、そのあたりの複雑さが、本当にきちんと描かれている小説なので、アメリカでよく読まれたというのも納得です。

奴隷制が廃止されるまで、逃亡して見つかった奴隷も、奴隷である主人公コーラを救おうとした人々もバッサバッサと虫けらのように殺されていくのですが、彼らがなぜ殺されたのかがちゃんと書かれているので、大きな社会変化は、こうした人たちの犠牲の上に成り立っていることがわかるのが救いです。

このあたりが、ハンドメイズ・テイルのシーズン3以降にそっくりなんですが、あちらのほうは女性の解放に向かうのかと思いきや、よくわからない女同士の対決が延々と続き、あれれれれ〜と視聴者が関心を失う感じになっていると私は思います。

話を小説『地下鉄道』に戻しますが……

作中、自由を手にした黒人が自分の話し方を直そうとしたり、本が読めるように努力する場面が何度か出てきます。日本から離れて暮らす私も有色人種で、場合によっては、差別対象になるわけです。北米の場合だと、アジア人はある領域ではマジョリティになっているので、今は、「アジア人ばっかり」という言い方をされやすく、裏を返すと、白人が多数を占めていることが「正しい」とされているわけです。英語を話すときも、出身がばれるアクセントで話しているため、それも差別を受ける理由になるのですから、ラストの事件は他人事ではありませんでした。

何かとカナダはアメリカからの「逃げ場」になるのは、なぜなのでしょうね。トロントにこんな場所がかつてありました。地下鉄道組織に敬意を払って作られたレストランだったそうですが、今はもうないです。ですが、今のカナダには、LGBTQI+の人の亡命を助けている組織があり、それが「虹鉄道」と呼ばれています。

読書会16 – ぼくが死んだ日&魔法にかけられたエラ

9&10月を一緒にした読書会の課題書は、2冊。『ぼくが死んだ日』と『魔法にかけられたエラ』でした。どちらも三辺律子さんの訳で、三辺さんの訳書で一度読書会をしてみたいね、と意見がまとまったからでした。

『魔法にかけられたエラ』は、アン・ハサウェイ主役で映画化もされているので知っている人も多いかもしれません。主人公が想像上の国の言葉に長けている設定なので、これ翻訳にすごく工夫が必要だっただろうな!とみんなでしきりと感心してました。翻訳 in 翻訳ですよね! 

英語の原作が出たのは1997年(?)なせいか、シンデレラの話がベースになっているからのか、結婚が「あがり」なので、今読むと、そこが気にはなりますが。とはいえ、エラにかけられた魔法は、彼女から自由意志をかなり奪い、それを取り戻す話なので、ガールズ・エンパワーメントな話です。

Netflix でやっている「Sex Education」の主人公級の女の子(メイヴのこと)が選ぶ人生はちょっと違う。2023年の女の子のエンパワーメントってこうなんだな、と。エンパワーメントって、個人の内なる力と、自分を認めてくれる外からの救いの手が同時に起きないと難しいですよね。「Sex Education」が秀逸なのは、本来「自分を認めてくれて、手を差し伸べてくれるはずの大人たち」がほぼ全滅してる点かなと私は思います。

と話がずれましたが、どこかで、若い読者はパステルカラーの表紙を好むと聞きました。『魔法にかけられたエラ』はまさにですね!

私の個人的な好みは、『ぼくが死んだ日』でした。普通、怪談といえば、キャンプファイヤーを囲んで、生きている子たちが怖い話をして盛り上がりますが、これは「死んでる子」たちが墓場で集まり、自分がどうして死んだのかを順番に話してます。最初、「あれ、そういう話なの?」と気づいてから、加速的に変な話が続くので、大人で怪奇小説好きな人は、「お!これはあの作品をなぞってる??」みたいな発見の楽しみのある本です。残念ながら、私にはそこまでの知識はなかったのですが、それでも楽しめましたよ!

19世紀に死んだ子や、わりと最近死んだ子もいて、「どの話が一番気に入った??」と盛り上がれる、読書会向きの作品でした。

表紙絵も、大好きなさかたきよこさん作です。もう何回も人にいいふらかしていますが、私はさかたきよこさんが絵付したライオンのこけし、「コケジジ」を持っています。すごく自慢!

読書会15 – カステラ

6月は飛ばし、7月の読書会の課題書は、パク・ミンギュの『カステラ』でした。

第1回日本翻訳大賞で大賞をとった作品なので、読んでみよう!ということになったのですが、出版から随分時間が経っていても、小説は褪せることなく、いや、むしろ身近に感じながら、読むことができました。

以前なら、「韓国って資本主義の圧力がこんなにも強いの?」と驚いていたかもしれませんが、韓国の映画やドラマを見ているうちに驚かなくなっている自分がいます。外国人労働者のことも、この小説に出てきましたしね。カナダの住みづらさも韓国とそれほど変わらないんじゃないかと最近は思えてきました。カナダは去年100万人も人口が増えたので、何かと競争が激しくなってきています(あくまでトロントの話ですが)。家からほとんど出ない私が感じるくらいなので、相当なんじゃないかと。『カステラ』を読みながら、ふむふむとうなづき、ギリギリの土壇場で絶望が回避されているところに少し安心できたのがGOODでした。

知り合いの韓国語翻訳者さんから、この日本語版の表紙についての逸話が書かれた記事を教えてもらったのもうれしく、読書会でひけらかしましたよ。

読書会14 – ワインズバーグ、オハイオ

5月の読書会の課題書は、シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ、オハイオ』でした。

みんなが新潮社版の上岡伸雄訳を読むようだったので、講談社文芸文庫のほうを読もうかと思ったのですが、海外在住者には入手が難しかった…… というわけで、私も新潮社版。

1919年刊行で、閉そく感たっぷりな田舎の町が舞台というのもあるとは思うのですが、ここに描かれている女性たちが気の毒というかなんというか……モノ扱いでした。もちろん、ここに登場する男性も全員不幸ではあるのですが。とにかく、男女の関係の描かれ方がワイルドウエストで、ついつい、この小説の中の女性たちに注目して読んでしまいました。

比較の対象がおかしいと言われそうですが、『赤毛のアン』は1908年に出ていて、同時代に、モンゴメリはせっせとアンとギルバートが愛を温めている様子を書いていました。『あしながおじさん』は1912年。あれは上流階級のお話ではありますが、あの中でも女性はそんなにひどくは書かれていなかった。狙っていた読者層が女性だったというのもありますし。で、日本では宮澤賢治が詩や童話を書いていました(最近『銀河鉄道の父』という映画を見たので……)。「だから、なんだ!?」と言われそうですが、まぁその、あの時代で、お金もなくて、地方にいて、労働者として人生を吸い取られるだけの人がたくさんいる町では、人々はいびつにならざるをえなかったんでしょうかね? どうやら、経済合理性が注目され始めた頃のようですし。

『ワインズバーグ、オハイオ』は、「いびつな」人ばかりが登場し、とりわけ男性のいびつぶりがすごいです。しかも男たちが「キレる」ときの臨界点に「は?」と驚くことが多かったのですが、アメリカでは今も現在進行形で、オハイオやミシガンに同じような人々がいるわけなので、「ひょっとして今もこんな感じ??」と空恐ろしい気持ちになりました。

『ワインズバーグ、オハイオ』というタイトルは映画『パリ、テキサス』を彷彿とさせますよね。あの映画の主人公も、『ワインズバーグ、オハイオ』に出てきそうな感じ。だけどだけど、『パリ、テキサス』は音楽で話の質が高められていました。『ワインズバーグ、オハイオ』にもかっちょいいプレイリストが必要!

翻訳勉強会 – 二つの旅の終わりに

コロナ禍を機にYA翻訳の勉強会に入り、エイダン・チェンバーズ作、原田勝訳の『二つの旅の終わりに』を少しずつ訳してきた。気がつけば2年以上経っていて、この小説のラストに近づいている。

なかなかに奥深い小説で、大人も十分に楽しめる。すぐに自意識をこじらせては考え込む思春期の少年が主人公で、彼の心の成長に第二次世界大戦がかかわって、少年は理不尽なことをいろいろと知る。現代はこの少年の語り、第二次世界大戦の過去は年老いた女性の語りと二重になっている。

この小説を部分的にあちこち訳してみて、改めて思い知ったが、話は重要であればあるほど複雑。現代は「すきま時間の活用」だとか「時短」なんて言葉が躍る時代だけど、そんな時間でわかるような問題じゃない!本当は何かをじっくり考える時間、考えている間に時間なんて忘れるくらいの経験が大切なんだよ。

私はかたい内容のノンフィクションを時々訳すので、著者が「すごくややこしい問題を考えることを読者に促す」ために、どういう章立てをして、どんな具体例をどれくらい、どのタイミングで盛り込んでくるのかについてよく考え込む。原文の文章が緻密であればあるほど、「ここに誤解されたくない、言いたいことがある? 煙に巻こうとしてる?」と思って読み返す。『二つの旅の終わりに』を訳していて、そういう作業は文芸もノンフィクションも同じだなと思った。

今、気候変動の本を訳してる。過去にいったん遡って、徐々に現代に近づく手法で書かれていて、文章が緻密。そういところも『二つの旅の終わりに』と似てる。似てるっていうのは変に聞こえるかもしれないけど。

そんなわけで、最近は家人と気象現象の話をする。私よりは断然科学に詳しいので。昨日は「成層圏(stratosphere)」の話になり、「昔は、<え?まじで?何それ?>みたいなことを stratospheric と言っていたが、今は誰もそんな言葉を使わない」と教えてもらった。

ChatGPTに訊いてみたところ、いろいろと例を挙げてくれた。

  • stratospheric prices=めちゃくちゃ値段が高い
  • stratospheric salaries=めちゃくちゃ給料が高い
  • stratospheric success=超すごい/すげー、やるじゃん
  • stratospheric leaps=超すごい/すげー、やるじゃん

今はもう「成層圏ぐらいで威張んなよ」ということで、使われなくなったのだろうか。

原書はこっち↓↓↓