L.A. Timesの『一人称単数』の書評と『Promising Young Woman』

4月はじめだったと思いますが、アメリカの新聞各社が村上春樹の『一人称単数』の書評を出していました。中でも、L.A. Timesの書評はもはや書評の体になっていない悪口でした。どのくらいの酷評なのかというと、村上春樹を「女嫌い」呼ばわりし、ユニクロとのコラボでグッズ販売していることまでけなし、もう本の話ではなかったのです。たとえば、アマゾンのコメント欄に、読者が本の梱包や配達に対する不満を書いて、星★1個の評価をし、本の全体的な評価を押し下げているケースが散見されますが、 L.A. Timesの書評もそれに近いものがありました。

それに比べると、ニューヨークタイムズの書評は、英訳者へのリスペクトも込められていて、8つの短編に合わせて「村上春樹の8つの見方」と多面的に評価しています。しかも、今の村上春樹は「西欧のある時期の文化の影響を強く受けた日本人作家」として見られているので、世界的に人気があるけれど、そういう彼を好まない人たちもいる、と書いています。ま、この2つの書評しか私は読んでいないんですが、L.A. Timesの書評と比べれば、そもそも質が段違いによいですよね。書評家なら、やはり「本」を評価してほしい。 L.A. Timesのあの書評が炎上狙いであったことは、あれを書いた女性書評家のツイッターを見ると、なんとなくうかがえました。

しかしですね、キャリー・マリガン主演の『Promising Young Woman』をご覧になりましたか? この映画は、学校で起きるレイプ事件に『危険な情事』的な恐ろしさを感じさせる内容です。学校で起きる性犯罪は、加害者も学生だった場合に「若気の至りだ/酔っていたから正気ではなかった」という言訳がついてまわり、うやむやにされがち。この映画が流行った2020年のアメリカを考えると、 L.A. Timesの書評が許される土壌はあったのかなと思います。『一人称単数』は、「僕」が若かりし頃に関わり合った女たちを回顧する内容で、「僕」は、それなりの関係があった女たちを「名前が思い出せない」などと言いながら、淡々と語ります。つまり、「僕」の記憶の中では、女たちがのっぺらぼう化しているので、アメリカの先鋭的なフェミニストは、村上春樹に対して「この野郎!」と思うのかもしれません。しかも、「僕」は限りなく本人っぽく書かれていますから。

でも、人は回顧するとき、自分と関わりのあった人々の全容を鮮明に思い出せるわけはなく、ぼんやりとしか思い出せない乳白色な部分や、記憶がすり替わっている部分があります。むしろ、そういうほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。『Promising Young Woman』の中でも、当事者たちの記憶が抜け落ちていたり、薄らいでいたり、主役の記憶ですら、ひょっとしたら「絶対に忘れたくない」という強い思いから、一部の記憶が自己強化しちゃってる可能性もなくはない。

そんな『Promising Young Woman』ですが、一回見終わって結末を見た後に、「ひょっとしてあれも、これも、計画の中に織り込まれていた??」と疑問が次々に湧いてきました。もう一回見なければ! これについても、誰かとちょっと話し合いたいです。←パンデミック前なら、映画を映画館で観た後に、一緒に行った人々と話し合えたんですよ。今は、それをクラブハウスでやっている人たちを見かけるんですよね。

白鯨 モービィ・ディック(2)

『白鯨 モービィ・ディック』を読んでいるうちに、スエズ運河座礁事故が起き、はっと気づきました。『白鯨』が刊行されたのは1851年、スエズ運河開通は1869年、パナマ運河開通は1914年なのです。 『白鯨』 には、南アフリカの喜望峰沖は世界中の船が行きかう「四辻」だという描写が出てきます。この小説に出てくる捕鯨船はすごく遠回りをして世界の海を航海しているのです。鯨の漁場に向かうので、ひょっとしたら、これらの運河が開通していたとしても、遠回りしているのかもしれませんが…… 

ついでに調べると、飛行機が発明されたのは1903年。鉄道が本格的に敷かれるようになったのは1830年代。『白鯨』が書かれた時代はほぼ船を中心に世界中の物資が行き交っていた、ということです。

他にも、『白鯨』には、北米大陸にあった聞きなれない運河の名前が出てきました。「エリー運河」です。マンハッタンのハドソン川から、ニューヨーク州北部ローチェスターなどを通って、エリー湖につながる運河です。今は、ほんの一部しか残っていません。水路は、物流網であり、情報網でもあって、2020年代の5Gみたいなものだったのかもしれませんね。エリー運河は、セントローレンス川を経由して大西洋と五大湖を結ぶ「セントローレンス海路」が出来たために廃れました。そのあおりを受けて、ニューヨーク州北部の一部は経済が疲弊し、代わりにセントローレンス川沿いと五大湖につながるカナダの町が栄えていったようです。カナダの鉄道網の発達も、水路に関連しているのでしょうからすごいですね。いやあー、『白鯨』からカナダの発展史につながるとはね!

引き続き、心に留まったことをツイッターでつぶやきながら読んでいます。「#モーヴィ・ディック」で検索してみてください。

白鯨 モービィ・ディック(1)

コロナの巣ごもり生活で、長編が読みづらくなった人もいるらしいですが、私は逆です。長編を読んでもいるし、読もうと思って買ってもいます。以前から『白鯨』を読みたかったのですが、歴代、いろんな訳者が翻訳しているので、どれにしようかと悩んでいたところ、豊崎由美さんが「千石訳で読んでもらいたい」と言っていたのを聞き、講談社文芸文庫の千石英世訳を買いました。

実は昔、他の古い和訳をいくつか読みかじったことはあったのですが、なんせササっと読める話ではないので、何度も脱落しました。今回は今のところ脱落していませんし、他のものも読みつつ、非常にゆっくり読んでいます。

今回は、「おや?」と心に留まったことをツイッターでつぶやきながら読むことにしました。諸事情で間をあけると、内容を忘れるかもしれないので、それを防ぐためでもあったのですが、なかなか功を奏し、結構覚えています。ライブ読書っぽくなっているので、「#モーヴィ・ディック」で検索してみてください。

『白鯨』を古典と言っていいのかよくわかりませんが、古典は新鮮です。小説が書かれた1851年頃は、アメリカのマサチューセッツで捕鯨が盛んで、これまた外国人乗組員をたくさん捕鯨船に乗せていたことも意外なら、エイハブ船長がそもそも片足を失ったのは日本沖だったというのも知りませんでした。この小説を「鯨文学」と人が言うのも納得なほど、19世紀半ばの捕鯨情報が克明に描かれてます。狂気と正気の対比もすごいです。

というわけで、下巻に進みます。

翻訳教室

先日ひさかたぶりに地下鉄に乗って、友だちと落ち合い、散歩して、公園のベンチで本や翻訳の話をした。互いに、「ところで翻訳の勉強といえばサ」と言いながら、ほぼ同時に出したのが『翻訳教室』

まさかのかぶりに大笑い。日本にいるならまだしも、トロントで……

翻訳のテクニックを学ぶ実用書ではないけれど、シルバースタインの『ぼくを探しに(The Missing Piece)』の原文を読み解く作業を小学生たちと一緒にやる仕立てになっている。ささっと読めるし、心に残る。あとで気になるところを何度でも読める。

友だちとはいろんな本を貸し借りして、また地下鉄に乗って帰った。

今の地下鉄では悲しい光景を目にするね。ホームレスの人が安眠できる場所として使っているようで、ぐたーっとなって爆睡している人、せわしなく歩き回る人、ぶつぶつ独り言をつぶやく人などが何人か乗っていて、気の毒なことだとは思いながらも、警戒しながら目の端で彼らの動きを追う。ここはニューヨークじゃないから、とは思うけど、一応。

この間、カナダ人たちの集まるクラブハウスに誘われ、みんながアジア人への人種差別について正直な気持ちをぶちまけた。私もぶつけた。ただ私の場合、カナダで生まれ育ったわけではないので、他の人の怒りとは質的に違う。ぶつけ方がどこまでも自分の域を超えない。他の人はコミュニティの問題、移民の問題として、どことなく「共通項」があるような話し方をしていた。私が話したのは、彼らとは違ってこんな内容……

コロナが始まる2年前、私はとある酒場であからさまな人種差別を受けた(マイクを持った人に)。その場で言い返せなかったから、そのときの様子や気持ちを、笑いも交えて短いエッセイにしたためた。それをとあるところに送りつけたら、気にいってくれて、掲載したいと言ってきた。数回メールをやりとりしたものの、私は最後の土壇場で、見知らぬ人から嫌な反応が返ってきたりしたら、それを見る心の準備ができていないと思って断った。ここまでは、クラブハウスで話せた。

でも、掲載を断った理由はもう1つあった。私を公衆の面前で差別した人は、女装した男だった。だからその人が She なのか He なのか、はたまた三人称単数の They なのかがわからなかった。私のエッセイでは、あえて「He」にしてあった。向こうがあからさまな人種差別をしたのだから、私が相手の人称代名詞に気を遣う必要はない!と密かな報復を込めて書いた渾身のエッセイだった。それを編集者は「They」に修正した。だから私は掲載を断った。「They」に修正しないでほしいと理由も説明した。これはクラブハウスでは話せなかった。

で、この一連の出来事をすべて知っている私のライティングコーチが、「あなたは戦うべきよ! あなたが戦わないなら、わたしが代わりに、その酒場に電話をする!」と騒いだのだけれど、これも私は「お願いだから、やめて」と丁重に断った。あの酒場で、差別的な言葉をマイク越しに言われても戦わなかったのも私なら、エッセイの掲載を取り下げたのも私。「これは私の戦いで、あなたの戦いではないから」と言って引き下がってもらった。

私は私のやり方でしか戦えない。それはクラブハウスで言えた。そしたら、その点はみんなに共感してもらえた。

おやつストーリー

「オリーブに載ってた、『おやつストーリー』覚えてる?」と友だちが言うので、うっすらと記憶が蘇ってきた。で、電子書籍を買ってしまった。

ああ、この軽さ。楽しさ。明るさ。

1982年から1991年までの日本で発売された数々のお菓子の紹介と、それを食べながら聴いたらいいんではないかという曲がお菓子ごとに選曲されている。いろんな曲をストリーミングで聞きながら、読んだ。ばか笑いした。

私は小学生のときに、放送部の友だちに「招待されて」給食の時間に全校生徒に向けてお菓子のコマーシャルソングを何曲か歌ったことがある。あの頃は本当にバカ丸出しだった。バカさをごまかそうとするようになってから人生が狂い始めた。

1年前(コロナコロナと騒ぎ始めた頃)、日本に帰り、千疋屋パーラーでフルーツパフェと「パフェに合うビール」を注文してみた(メニューにあったので、どんなものかと思って注文した。一時帰国中は欲張ってしまうこの気持ち、わかってもらえるだろうか)。しかも、パフェと同時にビール(ピルスナ)が出てきて、一体どっちを先に口にすればよいのかと、交互に食べたけど、パフェとビールは合わなかった。あれは、パフェを食べたい人に付き合わされてパーラーに行った酒好きが飲むビールなんだと、後から気づいた。昔、京都に遊びにきたおじいちゃんのために出町ふたばの豆大福を買って用意していたのに、肝心のお茶を用意し忘れ、豆大福にぶどうジュースを添えて出したことがあるけど、それに匹敵するくらい、合う合わない以前の問題だと思った。

今まで行ったスイーツ屋さんで、味も雰囲気も何もかもが最高だと思ったのは、西荻窪のこけし屋。そもそもこけしを買いに西荻窪に行ったら、同行の妹が「お姉ちゃん、あれ! あれ!」と指さしたのがこけし屋だった。感動しすぎて3つくらいケーキを食べた記憶がある。もちろんかわいい絵のコースターも持ち帰った。何より、店との出会い方が出来すぎた偶然でよかった。あとで東京在住の友人にこの話をしたら、「あんたみたいな趣味の人は、(こけし屋を)当然知っているものと思っていた」と言われた。

今だったら、この手のエッセイを書こうものなら、ウェブサイトにアフィリエイトいっぱいつけて掲載されるよね。あーいやだ。

とか言いながら、私もアフィリエイトのリンク付けてるけどね(↓)だって、どっかから画像とってきて貼り付けるのはダメって言われると、アフィリエイトしかないからさ。