帝国の遺産 – 何が世界秩序をつくるのか

コロナ禍のなか、この本を翻訳した。夏を挟んでの仕事で、休暇を楽しむこともほぼなかったけれど、この本のおかげで、アメリカを中心とした北米大陸、ヨーロッパ、ロシア、中国、インド、中東を旅できた。どこのホテルに泊まり、どんな食事をし……なんてことを心配しなくてよい机上の旅では、現代から近代、中世、果ては古代にまで遡って贅沢に歴史にふれることができた。たとえて言うとすれば、「イギリス」という名のおじいさんを訪ね、過去の栄光の自慢話を聞いていると、「イギリスに住んでいるインド」という別のおじいさんがやってきて、「そういう見方もあるだろうがね」と言いながら、別の話を語りだす。2人のおじいさんが昔話をしていると、それぞれの子どもや孫が話に入ってきて、みんなで「現在」を語る――そんな経験だった。

翻訳している間、世界を回りたくなった。もともと世界史や旅行が大好きで、いろんな国へ一緒に行く人がいなくても一人で行く質なのだ。この本を訳しているうちに行きたいところが増えてきた。

もしどこへでも行っていいのなら、ウクライナのリヴィウと、ロシアのサンクトペテルブルク、黒海周辺、トルコ、ロンドン(とイギリスのあちこち)を時間をかけて回りたい。ロンドンは短い間住んだことがあるが回り切れなかったし、EU離脱前のことで、外国人労働者が大勢いた。トルコは1990年代前半に何度か行ったことがあるが、今は様変わりしている。ウクライナとロシアは行ったことがない。一度だけトルコに行く途中にモスクワ空港で乗り換えたけれど、ペレストロイカが吹き荒れた時期で、何にもないどころか、あちこち電気が消えていて驚いた記憶がある。そんなロシアも今は全然違う。

この本を半分ほど翻訳して、休憩がてら、カナダ東部のキングストンという街に旅に出た。トロントからは車で2時間半くらい。英語圏のトロントとフランス語圏のモントリオールの間にキングストンはある。キングストン周辺を旅すると、フランス語があちこちから聞こえてくる。湖畔のビーチなどに行くと特にすごい。フランス語圏がカナダにあるのも、カナダとアメリカで今英語が話されているのも、昔、北アメリカ大陸がフランスとイギリスの植民地だったことの名残りだ(アメリカのルイジアナ州もフランス領だったのだから、フランスの植民地はとても広大だった)。

キングストンにはカナダ軍の基地や軍事大学がある。カナダ(まだイギリスの植民地だった)がアメリカと戦争していたとき、ここはカナダにとって水路の要だった。今は、キングストンの港にアメリカ海軍の軍艦が集結するなどあり得ないと思ってしまうが。今はむしろ、富裕なアメリカ人がヨットでセントローレンス川やオンタリオ湖を旅し、キングストンのヨットハーバーに立ち寄ることのほうが多いだろう。

キングストンの北にあるケベック州にはカナダからの独立を目標に掲げたブロック・ケベコワという政党があり、カナダの政治を左にひっぱっている。1995年、私がアメリカに住んでいたとき、ケベック州の独立住民投票が行なわれ、「なぜ独立する必要があるのだろう?」と不思議に思ったものだ。今は不思議に思わなくなったが、私が直接的に賛成や反対の意見を持つようなことなのかどうかは、今でもわからない。

この本にキングストンの話は出てこない。でもこの本のおかげで、「帝国の遺産」を意識するようになった。それまで私にとって、キングストンは美しいけれど小さな町にすぎず、取り立てて行きたい場所ではなかったが、格段に興味深い場所になった。

この本の著者は、「世の中は、世界を飛び回れる人ばかりではない」と考えて、エリート層を注意深く観察し、「帝国」という軸で彼らと彼らが支配する世界を見ている(著者もエリートだが、既得権益を長年享受してきたエリート層の出身ではない)。かつて世界を支配したことのある「元帝国」には、特権を享受した人、享受し続けたい人、富の再配分を望む人、何の特権も享受しなかったどころか搾取された人がいる。なんらかの事情で没落してしまった帝国には、再び世界舞台へ返り咲こうと帝国の矜持を持った人々がいる。そして現在は、「帝国」と自ら名乗らないが「帝国のような国」が近々世界のトップの座を手放しそうな過渡期にある。世界では常に、何らかの宗教勢力、政治勢力に追い詰められて人々が移動している。移民を親に持つ著者は、「ある1つの視点」を提示するのではなく、横(世界)にも、縦(歴史)にも広げて多くの視点を星座のように散りばめている。

「世の中を複眼的に見たって何の解決にもならないし、そんなの弱っちい! 自分の主張を通したものが一番強い!」と思う人もいるだろう。けれど世界の勢力図は、どこかの国がずば抜けてすばらしいから塗り替えられるわけではない。様々な勢力がけん制し合うなか、世界のどこかで何かが起きて、ある勢力が弱まると、その波及効果でどこかが強くなり、それに応じて人が移動する。かつては、宗教的迫害を受けた白人が難民化し、ボートで世界のあちこちに逃げた時期があったのだ。世界はたらいに入れた水に似ている。

日本では、大河ドラマを通じて特定の歴史を何度も振り返る機会がある。その都度、様々な武将や改革者の視点で歴史を見つめなおすことも可能だ。世界をまたにかけた大河ドラマを執筆するとしたら、きっと脚本家はこの本を手に取ると思う。

ブルースだってただの唄

タイトルがいいよね。内容は、アメリカのウィスコンシン州に住む黒人女性たちからの聞き書きで、時は1980年代。40年以上前の話。話が古いんじゃないのか……? と危惧しながら読んだけど、古い部分もあるけど、古びていない。「これから先、人種差別はどうなっていくと思う?」と尋ねる藤本さんに、黒人女性たちが答えた「未来の予測」が当たっていた。公民権運動でほんの少し地ならしはあったけど、分断の局面が増えて(黒人の中でも分断するし、黒人が「マイノリティ」として十把ひとからげにされてしまうから)、より悪い方へ向かっていく、と彼女たちは予測していた。

女たちは「肌の色の濃さ」に苦しんだ経験を語っている。日本で言うところの「ハーフ」の苦しみに似た苦しみを持っていると思った。

黒人とひとまとめにされてしまっているが、混血が進んでいる。両親のどちらかが白人や先住民やアジア系だと、子どもの肌の色は薄くなる。子どもが何人もいる家庭だと、それぞれの子どもに親の特徴が違って出てくる。たとえば、わりと色白で、髪もまっすぐな姉のあとに、色黒で髪も縮れた妹が続いたりする。すると、きょうだいの間に軋轢が生まれる。姉は、外に出れば白人の仲間のように扱われ、黒人に対する中傷を白人の友人からガチで聞かされ、色が黒い妹からはやっかまれたりする。それにいくら色白でも、自分は白人としては生きてはいけない。それは親を裏切ることになるから。肌の色とどうやって向き合ってきたか、横道にそれた経験も含め、女たちが語っている内容が具体的で興味深かった。目をそむけたくなるようなひどい話も出てくるけど。

ブラックライブズマターのときに、いろんなことが言われ、ふんわりとした同調論も批判あったけど、私には肌感覚でわからないことがいくつかあったので(いくら北米滞在歴が長くても、黒人作家の本読んでても)、読んでみた。正義が自分には適用されなかったという経験がないと本当にはわからないにしても、想像力を働かせれば十分理解できる具体性があったから。

あと、斎藤真理子の解説がすごくよかった。

これは1968年の曲なので、この本よりさらに10年以上さかのぼるけど、登場人物たちが「勇気づけられた」って言っていたから、リンク貼ってみた。

朗読者

映画は劇場公開されていたときに見たので、あらすじは既に知っていた。数百ページを費やして描けることと、2時間で描けることは全然違うよな、と改めて思った。映画は割と「愛」の物語になっていたと記憶しているので。

主人公の男と親子ほど年の離れた女は、かつて肉体関係にあり、二人の間には愛情もそれなりにはあった。が、互いに言えない秘密を持っていた。

その女は、主人公の男を「坊や」と呼ぶ。「あんたの何でも知りたがることといったら、坊や」「あら、坊や、何言ってるの?」「元気でね、坊や」

たまらないね、「坊や」の響きが。

この小説は愛の物語というよりは、もちろんそうも読めるけれど、人間の尊厳の話だと私は思う。「坊や」は、知識が豊富で言語能力が高く、たぶん第二次世界大戦後生まれ。年上の愛人は、文盲をひた隠しにしているが、文盲ゆえに社会の「罪」を背負わされていく。身寄りのない彼女を何らかのかたちで救うことができるとしたら、この世には「坊や」しかいない。女は、他人の世話になり、ささやかな幸福を手にして生きていくのか、それとも、人間としての尊厳を大切にして生きるのか、誰にも何にも相談せず、静かに考える。

言葉を操れない女は、「坊や」の朗読のおかげで文学を知り、読み書きがかろうじてできるようになり、それほど長くはなかった一生に、ほんとうにわずかで短い言葉だけを残して去っていく。彼女が心の中で何を考え、感じていたのかは誰にもわからない。ほんの少しだけ推測を許す、ささやかな痕跡を残していく。

一方の「坊や」は…… この女に救いの手を差し伸べなかった自分、女をどこかで裏切っていた自分、この女を知りつくし、他の女と常に比べてしまう自分について、正当化したり悩んだりして数百ページもかけて書いている……

言っておくけど、別に私はフェミニストっぽい視点で「坊や」を叩いているわけではない。

この小説はドイツのホロコースト後の世界が舞台。社会が暴力的になるとき、暴力を煽る人、ふるう人、助長する人、傍観する人、目を背ける人、阻止しようとする人たちに分かれる。やがて、暴力が蔓延しつくした社会に反省の時がくると、暴力を受け入れた社会の中で人同士が裁き合う。このとき、暴力を煽ったり命じたりした人たちは、既に姿を消してもういない。そして残された人たちが、暴力的な社会で自分が担ってしまった役割について反省する…… 

新しい本ではないけど、読んだタイミングがよかった。

プロデュースの基本

友だちがこの本の情報をシェアしていたので、興味を持って読みました。

おもしろかった。

グラフィックデザイナーの友だちと一緒にこのサイトのロゴやらグッズを作っているけど、いつもぶちあたるのは「いいけど、ずれてない?」です。ずれてるときは大体、何をしたいのかよくわからなくて迷走しているときです。「何かをやる→ちょっと違う→自分のことなのに感覚が麻痺してダメ出しすらできない→人に頼る→やり直す」という作業の流れは、本職(翻訳)にもよーくあてはまります。でも本職だと、時間の制約などで「やり直し」のチャンスが与えられないときもあります。学校の宿題や課題にも本質的に「やり直し」はないですよね。

それはさておき、『プロデュースの基本』を読んで、昔、銀色夏生に感じたほろ苦い嫉妬を思い出しました。広告代理店入りを目指す友だちから「銀色夏生、おもしろいよ」と紹介され、その詩集を読んだのです(こぶたが出てくるやつ)。当時、文筆業に進めたらいいけど自分には才能もなければセンスもないし、コネもない、家を継げ(=夢が持てない)と、ナイナイ病に犯されていた私は、ぱらぱらとページをめくりながら、「こんなの、私にだって書ける!」と、詩集をポイしてしまいました。

学校を出て初めて勤めた会社では「社内報のメンバーになれば?」とチャンスをもらいました。なのに、私はそのチャンスを生かしきれませんでした。会社を辞めると、社内報の編集長だった先輩がせっせと手紙を送ってきてくれました。手紙はいつも「壁新聞」のつくりになっていて、先輩が見た映画や本の感想、おいしかったスイーツのことなどがイラスト付きで書いてあって、受け取るのがすごく楽しみでした。

で、後から「そして僕は途方に暮れる」の作詞が銀色夏生だったと知り、私は本当に途方に暮れたのでした。だって、あの詩、すごくいいですよね。

そして今、2021年……

ナイナイ病はいつしか「時間ナイナイ病」になり、才能やコネやお金なんてあんまりなくたって、いろんなものが作れる時代になりました。「ねーねー、これ見て!」とか「これ読んでみて!」と対面で言わなくても、インターネットという大海の中に自分の作品をこっそりと置いておき、ツイートとFBで「アップデートしました」と伝えておく。趣味系のSNS(編み物、読書、映画、俳句など)なら同じ匂いのする人々とつながれて毎日が楽しい。自分が作ったものを仲間に見てもらえるって本当にうれしい。多分、「ものを作る」趣味を持たない人には、「何言ってんの?」って話です、ハイ。

ひらがなでよめばわかる日本語

これを読めば、句会でかなりパワーアップした句をひねることができるのでは? 訳文を作るときに役に立つのでは? などといやらしい欲を出して手にしました。しかし、「やまとことば」を語る背景として、そこここに散りばめられた神話や古代人の考え、万葉の歌がことごとく面白かったです。俳句も訳文も自分の言語力やセンスの範囲を超えたものは作れない。「なんか盗めるかも?」と考えたのはせこかった。

ところで、私の俳号は「今日丹」です。「ショーン・タン」みたいな響きですね。

仕事上、言葉をいろいろ知っておいたほうが武器になるし、ブログを始めるずっと前から、すてきな言葉をメモしています。この本を読み終わってからぱらぱら見返すと、どうも頭でっかちな「熟語」とかが多く、なんかちょっと恥ずかしかったです。もっぱら、そのときに読んでいる本に影響されているのだと思うけど。逆に、英語のすてきな言葉は、ドラマや映画のセリフが多くて、キャッチーな言葉ばかり書き留めてありました。いずれにせよ、自分が「こんな言葉が駆使できる人間になりたい」の欲望がうずまいておりました。

『ひらがなでよめばわかる日本語』は、日本の神話を知ることもできるし、著者が何をもって「やまとことば」と考えているのかもわかるし、日本の古代人の考えまでもがわかるような気がしてきて、なんというか、今のごたごたした世の中を忘れさせてくれるような、悠久の時の流れを感じさせてくれました。

日本の神話と言えば、もちろん三重県のこともちらちらと出てきて、ぐいぐい読んでしまいました。終わりのほうは、おそらく国語を研究している人たちの間ではまだ議論されていて、決着がついていないようなことも書いてありました。そういうトゲトゲした話題から入らないところに上品さを感じました。