グッズ作りました

「一体おまえは何屋なんだ!?」

ああ耳が痛い…… いいじゃないか、翻訳者がオリジナルグッズを作ったってサ。

旅行のキャンセル料で、まず、エコバッグを作った。何個か売れた。だが、エコバッグ先進国の消費者からは「エコバッグばっかり、そんなにいらん」という生の声も聞こえてきた。キャンセル料はまだ余ってる。

「ピンブローチとかステッカーといいんでねえの? パソコン、スケボー、ヘルメットにペタペタ貼れるし!?」と私は考えた。

そこでデザイナーの友人に相談。自分で下手な絵を描いて、インスタのスクショをとって、いっぱい送りつけ、チャットで話し合っているうちに、私は迷走しだした。

「ブランドって大事だからさ」と友だち。

さすが、プロの言葉には重みがある。このウェブサイトを作るときにも、彼女にサイトのオリジナルロゴを作ってもらったのだ。

さらにアイデアを出し合った。ストライクゾーンではあるものの、外角高めのギリギリとか、内角のきわどいところ、くらいの案を絞りだし続けた。「これでいいんじゃない?」と私は満足しはじめていた。ところが、ストップがかかった。

「きょうたんといえば、マトリョーシカだよね」

私はマトリョーシカをいっぱい集めているし、この世で一番好きなお菓子は「こけしアネス」。私は待った。やがて送られてきた画像が、最終的にピンになった「マトリョーシカ」だ。感動のあまり握りしめていたスマホを投げ捨てそうになった。真ん中ドストライクというのは、こういうことを言うんだね。

このピンの頭部は、おかっぱ頭なのか、マトリョーシカのバブーシュカなのか、よくわからない。そこがいい。

製品が出来上がったのでEtsyで売りはじめた。「何か作ろっと」とテンション高めで市場調査をしていたときには目にも入らなかったけれど、ピンブローチも売っている人が多くて、市場は飽和状態。

周囲の人に「あなたの棺桶はマトリョーシカ型にするといいよ」と言われているので、その棺桶に、このピンブローチとステッカーの売れ残りをいっぱいくっつけて出棺する自分の姿がはっきりとイメージできた。悪くはないね。

ちなみに、デザインのキャラクターが持っている本やハート、コーヒーカップに書いてある「I care」にはいろんな意味がある。意見が違うし、言えば喧嘩になるだろうけど、「私なりに世の中のこととか家族のこととか考えてる」って意味だったり、長年一緒にいるパートナーに対して、いろんな葛藤があって、「I love you」とは素直に言えなくなってるけど、「あなたのことも、わたしたちのことも大切に思ってるんだってば」って意味もある。「頭じゃわかってる、でも行動できない」「説教しないで。私に考えさせて、自分なりの最適解を出させて」って思ってる、けっして自暴自棄じゃないって言いたいときの「I care」だったりもする。 

というわけで、身に着けたり、あちこちに貼れば、明るい気分になれるかもしれないし、ひょっとしたら疫病退散に役立たなくもないかもしれないし、よかったらおひとついかがですか?

https://www.etsy.com/shop/pianissimoo

あるいは、直接連絡してください。

何らかの形でこのピンまたはステッカーを手に入れた人は、#icarepin のハッシュタグ付けてSNSに投稿してね。

The Dig

サットン・フー遺跡調査がこんなドラマになるとは!! わたしにとってはうれしい驚き(『忘れられた巨人』を読んだときや、ロンドンにいたときに知っただけで、古墳好きというわけじゃない)。

失われ、埋もれてしまった伝統を探し当て、発掘作業をしつつ新しい何が生まれる。伝統が重くのしかかり、権力が本気になったときの個人の無力感と、それでも勇気を出せば自分で自分の運命を決められることもあるっていう「破壊と再生」のストーリーが好き。

気になったのは、土を掘り返すという汚れ作業をしているのに、「作業服」の類を着ていないこと。動きづらいんではないか?と思ってしまったが、ジャージなんてない時代だからしょうがないのか。

サットン・フー遺跡については、こちらを読んでね。

ブルースだってただの唄

タイトルがいいよね。内容は、アメリカのウィスコンシン州に住む黒人女性たちからの聞き書きで、時は1980年代。40年以上前の話。話が古いんじゃないのか……? と危惧しながら読んだけど、古い部分もあるけど、古びていない。「これから先、人種差別はどうなっていくと思う?」と尋ねる藤本さんに、黒人女性たちが答えた「未来の予測」が当たっていた。公民権運動でほんの少し地ならしはあったけど、分断の局面が増えて(黒人の中でも分断するし、黒人が「マイノリティ」として十把ひとからげにされてしまうから)、より悪い方へ向かっていく、と彼女たちは予測していた。

女たちは「肌の色の濃さ」に苦しんだ経験を語っている。日本で言うところの「ハーフ」の苦しみに似た苦しみを持っていると思った。

黒人とひとまとめにされてしまっているが、混血が進んでいる。両親のどちらかが白人や先住民やアジア系だと、子どもの肌の色は薄くなる。子どもが何人もいる家庭だと、それぞれの子どもに親の特徴が違って出てくる。たとえば、わりと色白で、髪もまっすぐな姉のあとに、色黒で髪も縮れた妹が続いたりする。すると、きょうだいの間に軋轢が生まれる。姉は、外に出れば白人の仲間のように扱われ、黒人に対する中傷を白人の友人からガチで聞かされ、色が黒い妹からはやっかまれたりする。それにいくら色白でも、自分は白人としては生きてはいけない。それは親を裏切ることになるから。肌の色とどうやって向き合ってきたか、横道にそれた経験も含め、女たちが語っている内容が具体的で興味深かった。目をそむけたくなるようなひどい話も出てくるけど。

ブラックライブズマターのときに、いろんなことが言われ、ふんわりとした同調論も批判あったけど、私には肌感覚でわからないことがいくつかあったので(いくら北米滞在歴が長くても、黒人作家の本読んでても)、読んでみた。正義が自分には適用されなかったという経験がないと本当にはわからないにしても、想像力を働かせれば十分理解できる具体性があったから。

あと、斎藤真理子の解説がすごくよかった。

これは1968年の曲なので、この本よりさらに10年以上さかのぼるけど、登場人物たちが「勇気づけられた」って言っていたから、リンク貼ってみた。

朗読者

映画は劇場公開されていたときに見たので、あらすじは既に知っていた。数百ページを費やして描けることと、2時間で描けることは全然違うよな、と改めて思った。映画は割と「愛」の物語になっていたと記憶しているので。

主人公の男と親子ほど年の離れた女は、かつて肉体関係にあり、二人の間には愛情もそれなりにはあった。が、互いに言えない秘密を持っていた。

その女は、主人公の男を「坊や」と呼ぶ。「あんたの何でも知りたがることといったら、坊や」「あら、坊や、何言ってるの?」「元気でね、坊や」

たまらないね、「坊や」の響きが。

この小説は愛の物語というよりは、もちろんそうも読めるけれど、人間の尊厳の話だと私は思う。「坊や」は、知識が豊富で言語能力が高く、たぶん第二次世界大戦後生まれ。年上の愛人は、文盲をひた隠しにしているが、文盲ゆえに社会の「罪」を背負わされていく。身寄りのない彼女を何らかのかたちで救うことができるとしたら、この世には「坊や」しかいない。女は、他人の世話になり、ささやかな幸福を手にして生きていくのか、それとも、人間としての尊厳を大切にして生きるのか、誰にも何にも相談せず、静かに考える。

言葉を操れない女は、「坊や」の朗読のおかげで文学を知り、読み書きがかろうじてできるようになり、それほど長くはなかった一生に、ほんとうにわずかで短い言葉だけを残して去っていく。彼女が心の中で何を考え、感じていたのかは誰にもわからない。ほんの少しだけ推測を許す、ささやかな痕跡を残していく。

一方の「坊や」は…… この女に救いの手を差し伸べなかった自分、女をどこかで裏切っていた自分、この女を知りつくし、他の女と常に比べてしまう自分について、正当化したり悩んだりして数百ページもかけて書いている……

言っておくけど、別に私はフェミニストっぽい視点で「坊や」を叩いているわけではない。

この小説はドイツのホロコースト後の世界が舞台。社会が暴力的になるとき、暴力を煽る人、ふるう人、助長する人、傍観する人、目を背ける人、阻止しようとする人たちに分かれる。やがて、暴力が蔓延しつくした社会に反省の時がくると、暴力を受け入れた社会の中で人同士が裁き合う。このとき、暴力を煽ったり命じたりした人たちは、既に姿を消してもういない。そして残された人たちが、暴力的な社会で自分が担ってしまった役割について反省する…… 

新しい本ではないけど、読んだタイミングがよかった。

大統領就任式の詩の朗読

アメリカ大統領選の開票日は私にとって大イベントですが、就任式を見るのも一大イベントです。就任式はライブで見ていても、見るべき対象物(人)が多すぎて見過ごしがちなので、SNSで人々が何をつぶやいているのかも見ます。ま、それはさておき、今回は異例なことだらけの就任式でしたが、何事もなく終わりほっとしました。

私にとって印象的だったのは、アマンダ・ゴーマンの詩の朗読。それまで存在さえ知りませんでしたが、あの黄色のコート、あの真っ赤な太いカチューシャ、耳元にきらきら光るイヤリング、華奢な指に大きなリング、そしてメイク、というあの強烈なビジュアルがまずあって、あの手の動き。あの詩。あの朗読の仕方…… そしてあの若さ。「表現者」とはこういう人のことを言うんだなと感心しました。

そして、『The Hill We Climb』というタイトルのあの詩。人間は一生かけて山あり谷あり、矛盾や葛藤に満ちた人生を送るわけですが、やっぱり中年にもなれば「水平飛行」を好みます。あの詩は、彼女と同じように若い世代が聞くと喚起される感情がまったく違うのではないでしょうか。コロナでうまいこと乗り切っているのは中年や前期高齢者、バサバサと解雇されているのはやっぱり若い人たちです……

流れるような手の動きと言葉、それにリズムが一体になって、もう言葉の意味さえ咀嚼する間もなく感情を揺り動かされる、あの感じ…… 一億総勢、情報発信者になっている世の中だけど、みんな理屈っぽいし、どっかから引っ張ってきたような、誰かの真似をしているような、理屈か感情論しかない今。そんな中、「理屈じゃだめ、感情だけでもだめ、しったかぶりもだめ、ゴリゴリ一方的なのもだめ、何かを伝えるって、こうだと思う」と身をもって示してくれた気がします。

今も選挙結果を疑う人が多くいる接戦だった大統領選で、もしも逆が勝利していたら、おそらくアマンダ・ゴーマンの朗読したような言葉はなかった可能性が強いことを思うと、とりあえずこれでよかったと私は思いたいです。