句会と白蓮れんれん

Becoming a poet

頭の体操したいし、そこそこクリエイティブに遊びたいし、何よりバカ笑いしたい。それに北国では冬の室内遊びを考えないといけない…… ということでしばらく前に句会を決行。一応、形式や伝統は重んじるけど、それ以外はどうせ海外在住の身だし、ということでゆるめに。

もちろん予習も修正もしない。その瞬間に爆発する創造性が決め手になるようなしくみでやっているので、その場でひねりだすことがすべて。場所もパブ。お酒が回ってくるとピン句(大人の俳句)も詠んでしまうし、「うーん」と産みの苦しみを味わっている最中に、80年代の懐メロがおかまいなしに邪魔をする。普段は使わない部分の脳みそをフル回転させているので、せっかくだから記録して、インスタに句を挙げている(別アカウントで)。

海外でも夏井いつきの本が大活躍。

上達したら、もっと複雑な思いを短歌にしたためたい、と思っていたけど、林真理子の『白蓮れんれん』を読んでいたら、白蓮の恨みがましい恋愛の和歌がいっぱい出てきて、私には無理だと思った。私はどっちかというと失恋からの復活を祝福する歌のほうが得意だと思う。

ちなみに『白蓮れんれん』は、途中から白蓮が林真理子化していた。白蓮の口を借りて、林真理子が言いたい放題言っている。まあそれが面白くもあるけど。

ラストダンスは私に

Save the Last Dance for Me

と言っても越路吹雪ではなく、マネージャーの岩谷時子が主人公。

うちのおじいちゃんが「越路吹雪はホントにいいねぇ」とよく言っていたので、その名が幼少の私の心に刻まれた。

学生時代、友だちに「郷ひろみの『小さな体験』って歌に、『初めて二人が出会った喫茶店にカナリアがいたね』って歌詞があったよね。あのカナリアは絶対黄色だよね。あの歌を聴くと、カナリアしかもう浮かばないよね。すごくない?」と言われ、その作詞をした岩谷時子の名前が、文学少女の私のハートに刻まれた。

そしてそして、中年になって歌舞伎の面白さを知り、まだ生では見たことがない玉三郎を見たい見たいと念じていたら、なーんと、この本には青年期の素顔の玉三郎がいっぱい出てきた!!!

ちなみに西城秀樹も1、2行出てきた。『デュエット』で鳳蘭と共演してるからだけど。

大学進学するとき、私は「レンガ造りのすてきな校舎が並んでる大学」を基準に学校を選んでいた。もちろん神戸女学院も候補に入っていた(←岩谷時子の母校)。でもそこではなく、別のキャンパスが美しい大学を受験した。受験前夜に武庫川沿いのホテルに宿泊し、「嗚呼、もし私がこの学校に受かったら、きっと宝塚をいっぱい見るにちがいない」(←岩谷時子は大の宝塚ファンだった)と川を見つめながら胸を膨らませていた。あの頃の私は人生をなめていた。

この私の意識の流れがこの一冊に詰まっていると言ってもいい。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

数年前、ロンドンに3カ月滞在するときに、UK在住の人で面白いこと書いてる人いないかなと探して見つけたのがブレイディみかこ。

この本は、彼女の子どもの話なので、子育て経験のない人間にはわからないこともあったけど、面白かった。タイミングもよかった。グレタ・トゥーンベリがUNでスピーチして、今週は世界中のティーンエージャーが気候変動に手をこまねいている政治家たちに抗議してる真っ只中だったので(ブレイディみかこの子供は気候変動のデモに参加したかったのにできなかったので、その思いの丈をバンド結成に託している)。

翻訳の仕事で気候変動について調べることも多く、ふと思うのだけど、グリーンなデモは大昔ベトナム戦争が起きていたときの反戦デモに似ている。二酸化炭素って何でしょう? みたいなことを学校で学びたての若い子と、そんなものはとうの昔に習って知っている!と言っている大人との争い。二酸化炭素ひとつとっても、科学的な発見は近年いろいろとあったし、石油は今はもう地表付近にはないとか、若い子のほうが最新情報をよく知っている。反戦デモは「戦うって、私たちがですか?」なので、どちらも若者が中心。大人は資源が枯渇してきてるのを知ってても、自分が生きている間に枯渇しないならいいやとか、猛暑もあと5年ぐらいなら我慢しようかなどと、余生がどれくらいあるかで切迫感が全然違うのだと思う。FBで誰かが言っていたけど、日本の年金問題のように、世代間でのリソースの奪い合いにちかいかも。

でも表舞台に出てきて発言するティーンエージャーを、「情緒不安定」と公に言う政治家ってすごいね。アル・ゴアに対して同じこと言える? って聞いてみたい。だから若い子たちが腹を立てるんだと思うな。家の中で「あの子はちょっとおかしい」とごにょごにょ言っているのとレベルが違うもん。

RES GESTAE POPULI ROMANI

RES GESTAE POPULI ROMANI

断捨離を決行し、カリフォルニアから引っ越したときのまんまの段ボール箱を開けてみたら、『ローマ人の物語』のハードカバー版が全巻揃って出てきた。塩野七生にとって長い長い道のりだったこの作品は、私にとってもいろんな意味で「歴史」だった。

1991年頃、 世界のタイルの本を読んでいて「イスタンブールに行ってみたい」と思い立った。まずは、京都のトルコ文化協会に行ってみた。「トルコについて学べる面白い本ありますか?」と訊いてみると、バックパッカーが書いた本を何冊か、そして「塩野七生もオスマン帝国を描いた小説書いてますよ」と『 コンスタンティノープルの陥落 』を勧めてくれた。これが、塩野七生との出会いだった。 インターネット以前の時代には、こんな悠長に情報を集めていたのかと思うと感慨深い。そして友達からも塩野作品を贈られたりして、どんどん読んだ。

塩野七生は最初、ローマ帝国が東西に分かれて崩壊した後の歴史をずっと小説にしていた。そこから「ローマ帝国のことを書かなくちゃ」ということで、『ローマ人の物語』 を書いた(と本人が言っていたような気がする)。

その間、私はトルコやイタリアに何回か行った(ローマの遺跡巡り)。パリのルーブル美術館に行っても古代ギリシャ・ローマのコーナーだけで一日つぶすぐらいの勢いだった。 今思い返してみると、トルコにはモスクワ経由か、シンガポール経由で行っていた。シンガポールで乗り換えるときはチャンギ空港で買い物して遊べるのに、モスクワ経由のときは、ソ連崩壊中だったので、空港に何もなくてショックだったのを覚えている。そして、私はチャンギ空港でラケットなどテニス用品を一式買い、トルコでテニスをして遊んで帰ってきたのだった。 でも、『ローマ人の物語』 を読み終わってしまうと、私も心の中で何かが完結してしまった。

今年はレオナルド・ダ・ヴィンチの没後500年なので、それ関係の仕事を手に入れたい!と思い、久々に レオナルド・ダ・ヴィンチ が出てくる 塩野七生の小説をちらちらと読んでいた。やっぱり面白かった。でも仕事は来なかった……