続明暗

同業者さんから、「この記事を読もうとしてるのに、読めない!」と連絡が入ったのがきっかけで、昔のブログサイトに載せていた記事を再録。あのブログサイトは、運営会社の都合でなくなったのです。

これは水村美苗著の『続明暗』を読んだあとの感想。

(再録はじまり)

途中、津田にイライラしつつも楽しんだ。水村美苗が書いているから、情けない男を見限る瞬間の「女性」の視点がよかったな。嘘を突き通せると思い、謝罪のタイミングを見誤ると大変なことになる、という落ちが往生際の悪い津田にピッタリ。すごいなぁ、勇気あるなぁ、漱石の未完の小説の結末を書くなんて。

比喩が漱石っぽくてよかった。『明暗』に何が書いてあったかを覚えていないので、前半に何があったのかを想像しながら読んだ。でも、津田にイラつくのが嫌だから、漱石の書いた前半に戻らないと思う。

(再録おわり)

全然大したこと書いてない。これを読んだのは2016年頃だと思う。夏目漱石の『明暗』を読まなくても、十分にこれだけで楽しめるはず。主人公の津田は私に強烈な印象を残し、姉御とのポッドキャストでも話題にさせてもらった。

同業者さんが教えてくれたブログのほうがはるかに詳しく書かれているので、詳しく知りたい人は、そちらをどうぞ。

ムーミン読んでます

北欧の同業者さんから、「この順番で読むといいかも」と教わり、ムーミン全集(9冊)を読んでます。おそるべしムーミン…… 荒唐無稽なムーミン一家の行動のなかから、「自分の好きなことをやって生きるのは幸せですよ」と重大なメッセージが漂ってきます。もっと子どもっぽい話かと思っていたら、夏が短いことを知っている北国独特のもの悲しさが全体ににじんでいて、少し怖さもあります。全集を読みつつ、そのうち、トーベ・ヤンソンの短編集にも手をつけようと思います。

ちなみに、ムーミンキャラクターにたとえるとしたら、私は「ムーミンママ」なのだそうです。自分でも自覚はあるな。

『ムーミン谷の彗星』には、「ニョロニョロたちは、どこかにあるあこがれの地をめざしているけど、どうしてもたどりつけないんだって……」と書かれていました。はじめて知りました。

フィンランドにはムーミンがあっていいなと北欧の同業者にもらしたら、「カナダには赤毛のアンがあっていいじゃないですか!」と反論されました。でも、赤毛のアンの最大の弱点は、原作にイラストがないため、いろんな絵柄の赤毛のアンが存在することです。つまり、キャラクターグッズになれない。「赤毛で三つ編み、そばかす」を盛り込んでおけばいいわけではなく、うっかりするとウェンディーズ(ファーストフードの)のロゴになりかねません。

掃除婦のための手引き書(書評講座の書き直し)

2022年4月16日の「翻訳者のための書評講座」の課題を書き直しました。Before & After は note にも掲載しています。

洗剤や消毒の匂いが漂う『掃除婦のための手引き書』

 本書を手に取る人はきっと『掃除婦のための手引き書』という不思議な題に興味を惹かれるだろう。ところが、表紙の写真は掃除婦らしからぬ美しい女性。小粋に煙草を指に挟んだまま、微笑を浮かべて遠くを見つめる目は達観し、何事も見逃さないような印象を与える。この女性が著者のルシア・ベルリンだ。
 1977年に出版された初の作品集をきっかけに、一部で知られるようになったベルリンは、「知る人ぞ知る作家」のまま、2004年に亡くなった。再発見され、世間一般に知られるようになったのは2015年、彼女の全作品のうち43編が新たに編まれて出版されてからのことだ。ここに紹介する日本語版には、2015年版の『A Manual for Cleaning Women』の中の24編が収録されている。
 表題の短編「掃除婦のための手引き書」は、カリフォルニア州サンフランシスコの対岸にあるバークレーとオークランドでベルリンが掃除婦をしていた頃の話がもとになっている。主人公マギー・メイは、通勤に乗るバスの路線別に出来事を並べ、裕福で進歩的で、幸せそうに見える家庭の家を片付けるときの、物の盗み方、ペットとの接し方、他人の不幸のかけらの見つけ方を助言する。
 自己実現のために「掃除婦になりたい」と思う人など少ないだろうに、なぜ「手引き書」なのか。掃除婦マギー・メイには絶対悪や絶対善の感覚がない。善悪は相対化され、独特のバランス感覚を持っている。だから「奥様がくれるものは、何でももらってありがとうございますと言うこと。バスに置いてくるか、道端に捨てるかすればいい」と言いのける。死別したパートナーとの思い出も時々挿入され、行き場を失った愛情をどうしたらよいのかを、マギー・メイは掃除の仕事の行き帰りに考えている。
 どの短編も主人公の女性はベルリン自身がモデルだ。少女時代は引越が多かったせいか、学校でやることなすことぎこちなく、問題児扱いをされていた。大人になってからは重度のアルコール依存症に苦しんだ。同じくアルコール依存症だった母親との関係も難しく、幼い頃のおぞましい体験も後半に収録されている「沈黙」で明らかになる。コインランドリー、病院、歯科医院、養護施設と、洗剤や消毒の匂いが漂う場所が頻繁に登場するのは、自分に絡みつく酒の匂いや過去を払拭したかったから?
 この作品集は冒頭から順番に読めば、ルシア・ベルリンが自分の不幸とどう折り合いをつけていったのか、彼女にとって文章を書くことがいかに大切だったのかを知ることができる。『掃除婦の手引き書』なのだが、「苦しみの殿堂」で、彼女は末期がんの妹の家を片づけながら、「死には手引き書がない」と言っている。
 
(想定媒体:読売新聞)
(1072文字)

言い訳(と豊崎さんからの心に残ったコメント)

 第1回目の書評講座後、私は小泉今日子の書評に注目して研究しました。周囲の人に「あれは小泉今日子だから許されるのであって、アンタが書いても……」という耳の痛いことを言われましたが、私は小泉さんの「本との出会い」から本の内容へと進む書き方がいいなと感じていたのです。そこで今回は、表紙→あとがき→表題作の順番で書いてみました。これが私のこの本との出会い方だったので。いたって普通の出会い方ではありますが。
 修正前は、「人生の一回性」について書こうと思っていました。講師の豊崎さんには「それならば、人生は取り返しがつかない、と感じたところを本からピックアップして書けばいいのに、書いてない」と指摘されました。確かに、書いてません。
 今回は書きたいことを箇条書きにして、それをつないで膨らませただけでした。結果、「文章がぶつぶつ、ごつごつした感じになっている」と指摘を受け、「800字字数が与えられているなら、その2倍や3倍は書いて、削りに削る作業をしないといけない」とアドバイスも受けました。完全に見破られていました。本当にそのとおりだと思います。この書き直しも、別に大した改善はないですが、記録のためにここにさらしておきます。
 
「他の人にはない気づきがあって面白い」とおっしゃっていただきましたが、実は、豊崎さんの書評講座では毎回同じようなことを褒めていただき、私にはこれしか褒めるべきところがないようなのです(トホホ……)。

なーんと、第3回も企画中です。12月3日(土)に開催です。課題書はまだ決まっていませんが、興味のある方は是非!まだまだ時間があるので、講師豊崎さんの『ニッポンの書評』を読んで、ウォームアップすることをお勧めします。

読書会6 – 喜べ、幸いなる魂よ

今回もYAを離れ、佐藤亜紀の『喜べ、幸いなる魂よ』を読んだ。非常に面白く、読書会で語り合い甲斐のある作品だった。

川本直がすごい書評を書いているから、詳しくはそれを読んでいただくとして。

川本さんはヤネケをすごく肯定してる。その理由にはもちろん100%同意するけど、読書会では少し違った。「ヤネケは超人的な能力を発揮し、他人にはまねのできない博愛もあるけれど、他人の心を思いやることができないないから、もしかするとその背景には??」と、ここにははっきりと書けない疑惑が浮上。

ヤネケは知的能力に優れた女性の理想郷にいる。そのヤネケが確率論について本を書く。確率論上、ばらつきがあっても、長い時間を経て、ある平均に収束する。でもその「ばらつき」こそが変化をもたらす。この論理は男女にも当てはめられている。ヤネケは「とんでもなくばらついている個体」。

そこに宗教がからめられ、オスのいない世界としてベギン会が描かれている。ベギン会とは、修道女ほど俗世と断絶していなくて、俗世にもそこそこにつながりつつ、神に仕え、宗教的な生活を営む女性たちの共同社会のこと。そして、ヤネケの実家である商家が「娑婆組」として、普通に結婚や出産を繰り返して種を絶やさずに存在し、その周縁に同性愛者(この小説では、男が男を好む人々が何人か登場)がいる。メスしかいない世界の対極には、男だけの世界がある。

読書会では、この中間にいる人物たちについても、時間をとって話した。誰に一番共感できるとか、共感しないけど、理解ができるとか。読書会で言うのを忘れたけど、私は個人的にベギン会が女子大みたいだと思った(女子大出身なので)。

読書会のメンバーは全員翻訳をやっているので、『喜べ、幸いなる魂よ』の会話、特にヤネケとヤンの口調が現代的で、ずーっと年をとっても同じ口調で話していることにも言及。翻訳者は小説家とは違うから、「原書」をリスペクトすることがとても大切。でもそれは訳すときの制約にもなる。この小説は舞台が海外で、限りなく翻訳文学に近いけど、佐藤亜紀が書いたものだから全然違う。それはヤネケの口調に端的に現れている。たとえ翻訳者が相当な勇気を出してああいう会話文を作り上げても、編集の段階で揉めると思う。小説の場合でも、揉めるのだろうか??

この小説はとにかく面白かった。絶対に読書会向き。みんなと話して倍以上楽しめた。

似たような作品で、大島真寿美の『ピエタ』も名前が挙がったので、読んでみようかな。

読書会5 – 雨の島

今回はYAを離れ、大人の小説。台湾の有名な作家、呉明益の『雨の島』を読んだ。

台湾は何回か行ったことがあるぞ! と本を開いてみると、私は台湾のことなんて、これっぽっちも知らないことに気づかされた。私は「台湾=台北」のイメージしか持っていなかった。登場人物も台湾の原住民族。そういえば、昔台湾で仕事をしていた妹が、「台南のほうは全然ちがうよ」と言っていた、と今頃思い出した。

『雨の島』は近未来の話なのに、どこか懐かしい気持ちになる。思わずエドワード・ヤンの映画が目に浮かぶ。わかりますかね、このたとえ……

台湾に生えている植物や鳥の名前など、知らない固有名詞が次々と出てくる、細かい自然描写。そして、その自然がSFとうまくマッチしている不思議さ。現実と幻想の世界を行ったり来たりしても違和感を感じない。それに、登場人物には外国とのつながりがあることが多く、小さな島国の話なのに、空間が広がってるみたいにも感じる。

6つ収録されている短編のなかでは、2番目の短編がいちばん好きだった。読書会のみんなも、これが好きだと言っていた。いちばんわかりやすい、ってのもある。

気になったのは、アンドロイドクロマグロ。これについては、いろいろと話すことが多く、環境問題、AIの将来へと話は広がり、呉明益のわなに完全にはまっている気がした。アンドロイドクロマグロの短編は、ちょっと『白鯨』っぽい雰囲気もあって、こちらも好きだな。

呉明益の作品は、いっぱい積読しているから、この夏にいろいろと読もう!