永遠に続くものはない(2)

ヤプログのブログの引っ越しで、永遠に続くものはない、と思っていた矢先 、大好きだった毛糸屋がのれんを完全に下ろすことになった。トロントに引っ越したての頃、暇をもてあまして編み物ばかりしていた。そのとき常連になった。

2年ぐらい前に店舗の家賃が高騰してオンラインショップになり、そして今回の店じまい。オーナーは65才になり人生の優先事項が変わり、「小売業から卒業」してもいいと思えるようになったとソーシャルメディアで告知があった。それを読んでいて目頭が熱くなった。まあ、こういう日が来そうな気はしていたけど。

「手芸好きのイメージ」を売る店ではなく、トロントでは数少ない、本当に編み物が好きな人に毛糸を売る店だった。

私はあの店のためにサンプルを編み、毛糸をいっぱい買い、オーナーや店員と仲良くなって、本を勧め合い、近くを通ったときは用もないのに立ち寄っていた。TJWK のチャリティを始めたときも、毛糸をたくさん寄付してもらった。ロンドンにいたときもアメリコの毛糸を持っていって編んでいた。

寂しい。チェーン店はなくならないけど、個人商店はいつかは消える。

アメリコの毛糸で編んだセーターを断捨離しようと思っていたけど、やっぱりキープ。心がときめくから。

ブロッグお引越し

ヤプログのサービス終了ということで、引越し先を考えている。

忘れていたけど、グーグルの Blogger や、Note や FC2 などにもアカウントがあって、下書きがいっぱい見つかった。この中のどれかに引っ越しするか、有料だけど仕事で使っている WordPress に引っ越しするか…… とても悩ましい。

ヤプログのブログはテンプレートの模様(だけ)が気に入っていた。おそらくこれを使っている人はあまりいなくて、カフェで私のブログをパソコンで開いている見知らぬ人も見かけたこともある。おしゃれですっきりしたテンプレートとか嫌いじゃないけど、自分らしくない。でも好きなテンプレートを探すのも面倒くさい。このテンプレートのデザインをした人、譲ってくれないかな。

ヤプログのブログは 2005 年の夏、姪っ子に勧められて始めた。元々書くのが好きだったのもあるけど、私が言いたいことは対面で話すと嫌われかねないことも多かったので、ブログの楽しさを知った。

昔のエントリは本当に書きなぐっていたので間違いだらけなので、葬りたい。ここ数年分はどこかに引っ越しさせてそこでも読めるようにしたい。でもそういう作業が面倒くさい。

永遠に続くものはない、と思い知らされた。

Once Upon a Time in Hollywood

すごく期待していたわけでもなかった。でも「あの事件」をよく知っていないと、映画の前半からドキドキはしないし、最後は笑えないよね、きっと。

結果的に独りで見たけど、最後は叫ぶわ、笑うわで楽しんだ。一緒のノリの人と「面白かったー!」と言いたかった気もするし、「つまらない」と言われて気分が冷めなくてよかった気もする。

こういう役柄のブラピは好き。

Scarborough

今月のブッククラブのお題は『Scarborough』

Scarboroughは「スカーボロー」と読み、トロントの東端にある地区の名前。その中の貧しい地域にあるシェルターとコミュニティーセンターで子どもとその親たちが生活している。彼らは福祉の世話になっているという共通点だけでつながっていて、バックグラウンドはフィリピンやパキスタンからの移民、白人、先住民族と多種多様。いわゆる「移民文学」ではなく、カナダの富裕層がひしめく大都会トロントからは忘れられた人々に光をあてている。

著者はキャサリン・ヘルナンデス。肌の色は浅黒く、LGBTQで言うと「Q」に属す人。ストリートで使われる英語で書かれた、歯切れがよくてパンチのきいた文章は読みやすい。私は時々ライティングコーチに指導してもらっているが、そのコーチもキャサリン・ヘルナンデスと似たバックグラウンドを持っていて、「L」に属す人。実は二人は知り合いで、どちらも生まれてこの方「マジョリティ」に属したことなど一度もない人たちなのである。

『Scarborough』は2017年の刊行後、トロント市、オンタリオ州の文学賞候補になっている。地元ではわりと話題の1冊なのだ。ブッククラブの今月の参加者はあまりにも多く、2グループに分かれての話し合いになった。

それでは、どんなことを話し合ったのか。

  • 子どもの視点で書かれている

どの章も長めのブログの程度だし、各章の語り部が子どもたちになっている。どの家庭も実は大人は悲惨なのだが、「悲惨な状況」は子どもを通じて間接的に伝わってくる。救いようのない話も、子どもがひょっとしたら今の境遇から抜け出せるのではないか、と期待しながら読める。逆に言うと、大人たちの身の上に何が起きたのかは中途半端にしか知ることができないので、想像するしかない。

  • トロントの教育委員会とコミュニティーセンターの職員のメールのやり取りどう思う?

中央と現場の対立が、さもありなん、という感じで描き出されていて、すごく効果的だった。

  • スカーボローに行ったことがない

ブッククラブ参加者は基本みんなダウンタウンに住んでいる。そう遠くはないけれど、ダウンタウンからはスカーボローには用がなければ行かない。それでも、スカーボローってこんな感じだよね、と伝わってくる。著者がスカーボロー出身だから。

が、登場人物の中に、自分を重ねられる人物はいるか、との質問には、全員が「ノー」と答えていた。地理的に離れているだけではなくて、余暇に読書できる環境が持ててブッククラブにまで来る人たちから見ると「遠い別世界」なのだと思う。

  • タガログ語が容赦なく出てくるけど、どう思う?

英語とタガログを混ぜながら話しているところにフィリピンからの移民らしさが出ている。馴染みのない外国語や外国の文化をいちいち説明しないのも「これが移民ってもんだ」という感じが出ていていい、との意見が多かった。

  • 最後の章をどう思う?

意見が真っ二つに分かれ、半数以上が混乱したとか、納得しなかったとか言っていた。「死後の世界の存在」を許容できるかできないか、そんな価値観も関係しているのかも。私は肯定派。今後この本を読んでみたい人のために、これ以上は言わないでおきます。

  • この本を人に勧める?

お勧めすると言っている人がほとんどだった。ただ、ガチガチの自己責任論者には読んでも響かないのでは…… あとトロントに来て間もない日本人が読むと、スカーボローに対して恐怖心を植え付けられてしまいそう。たとえば、パリに憧れる人がパリについて書かれた本を読んでみたいと思ったとき、まずは「美しいパリ」を想起させる本を選ぶと思う。パリ在住歴が長く、パリにも貧困地区があることをよく知っている人なら、もっと違う本を読むはず。『Scarborough』もそれと同じ。トロント在住歴が長い人にお勧めしたい。

私は、恵まれた自分とのギャップに衝撃を受け、やるせない気持ちになったし、悲しみの涙と感動の涙で目頭が熱くなることもあった。あっという間に読めてしまうのもいい。

Memoirs of a Geisha

ブッククラブの今月のお題は『Memoirs of a Geisha』

20年ぐらい前に読んだけれど、今更読み直したいわけでもなかったので、記憶が曖昧なまま参加。驚いたことに、参加者がいつもより多く、40人はいたと思う。昭和の戦前から戦後にかけて、貧しい漁村から売られて祇園で芸者になった女性の話なのだけど、2019年の時点で20代半ばから30代半ばの女性に何か響くものがある本なのだろうか……「読み始めたら止まらなくなった」と言っている人も多かった。

  • 文化の盗用(Cultural Appropriation)

私の予想に反して、参加者たちは(女性のみのクラブです)、「京都の花街」という特殊な世界で生き、「処女の売買」がお約束の職業に就いた女性の境遇に対して理解があった。それだけでなく、この小説がアメリカの白人男性によって書かれていることの意味も理解していた。彼女たちは、小説を読むことにかけては「スーパー読者」なのであった。私が「白人男性が書いた芸者の話だし」と否定的に思っていることも、「それはそれ」と受け入れている。近年、たとえば「白人なのに黒人の話を書くな」のような「文化の盗用(Cultural Appropriation)」が取り沙汰されることが多く、食傷気味になっている人も多いので、その反動なのかもしれない。日本でオール日本人キャストの「レ・ミゼラブル」のミュージカルを「文化の盗用」と思うか、「それはそれ」と思うかの違いだろう。

  • 自分の人生を選ぶ

この小説について、参加者の彼女たちにとって一番気になった点は、主人公がいつ「自分の人生を選択するのか」だった。貧困や置屋生活など、自分で自分の人生を選択することが困難な状況が長く続き、「流れに身を任せる」しかなかった女性に、どこかで「自分の人生を選んでほしい」という期待があるのだった。だから、「旦那」といつまでも縁が続くことに疑問を感じているようだった。その一方で、仮に「置屋から逃げて、貧しい漁村に帰って、地元男性と結婚したとしたら、主人公は幸せだっただろうか?」の質問に、「いや、それはないよ。花街で芸者になって、旦那に海外で店をもたせてもらうという人生でよかったし」と、運命に逆らわなかった主人公の人生を肯定する意見もあった。「自分で自分の人生を選択」しても、その結果として成功あるいは安定が得られるかはわからない、ということなのだ。

  • トゥルー・ラブ

最後に誰かが、「トゥルー・ラブって、カルチャーが違うとやっぱり違うのかな?」と疑問を投げかけた。「トゥルー・ラブ」と聞くと、反射的にディズニー的なものを想像してしまう。その時点まで私はずっと黙っていたが、日本人だし、ここで何か言ったほうがいいのかな、と次のようなことを述べた。

「戦前の日本は、自由な恋愛をして結婚する社会ではなかった。食いっぱぐれないようにとか家族の繁栄のためにとか、そんな理由で結婚していた。でもそのおかげで貧乏から救われ、相手に半永久的な感謝の気持ちを抱いたとしたら、それをラブと呼べるケースもあるかもしれない」と言ってみた。処女で結婚して、その男性と床を共にすることで、そこから始まる「愛」もあると思うし、散々とっかえひっかえ相手を試していれば、その中から一番を選べるのではないかというアプローチもある。そのあたりについてブッククラブでちょっと話したい気がしたけど、さすがに聞けなかった。