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読書会3 – イグアナの娘

今回は萩尾望都の『イグアナの娘』で読書会。当然、これまでの「毒親」からの流れです。

「毒親」というものを理解するため、河合隼雄の『大人になることのむずかしさ』を読んでいましたが、これがなかなかよかったです。親のほうが「自分は理解のある親だ」(ゆえに「悪いのは子どもだ」と無意識に考える)と強く思い込んでしまうので、親子関係のもつれをなかなかと解けないことがよくあるらしい。

『イグアナの娘』だけでかなり話し込みました。参加者のひとりから、24ページで大きな転換を迎えるという衝撃の意見がぶっこまれ、もうそうとしか読めなくなりました! ゴーレム効果についても教えてもらいました。この読書会までに萩尾望都のことをいろいろと調べたので、他の作品ももうしばらく読み続けたいです。

そういえば、『大人になることのむずかしさ』に、イマジナリー・フレンドといえば!の代表格的な作品として『思い出のマーニー』があげられていたので、まずはジブリ版をネットフリックスで見ました。な、る、ほ、ど。そのうち原作を読もうと思います。

次は、『秘密の花園』+『私のこまどり』。前回『あしながおじさん』で盛り上がったので、改めて古典を深読みしてみたいです。

『私のこまどり』は同人誌『ほんやく日和』のVol.3に新しい訳が入ってると聞いたので、日本の家族に送ってもらっているけど、読書会の日までに届くかなぁ。届かなかったら、別のを読みます。

PODCAST EP2

エピソード2をお届け。前回よりも慣れました。今回は、

1)エピソード1の反省

2)リスナーからの声

3)服部昇大作の漫画『邦キチ!映子さん』

4)斎藤工

5)ウクライナ映画『ドンバス』

6)三重県と愛媛県のステレオタイプ

についてしゃべってます。

ポッドキャストって面倒くさいかも?と思ってましたが、「もう頭つかわなくていいんじゃない?」というくらいに、ソフトウェアが勝手にやってくれるので、考えなければならないことといえば、「話す内容」と「どうやって話すか」くらいなもんです。

David Sedaris Book Tour

3月末、デイヴィッド・セダリスの朗読会に行きました。日記の朗読会で、数千人を集め、90分間笑わせるのはすごい。「朗読会」っていってますけど、デイヴィッド・セダリスの場合は漫談に近いです。

彼も65歳。彼と一緒に年を重ねたファンでいっぱいでした。チケットが80ドルするので、なんとなく興味がある人や学生にはハードルが高い。前回トロントに来たときは、本屋さんの無料イベントだったというのに。

聴衆の誰かが「カナダ人とアメリカ人の違いは何だと思うか?」と質問を投げました。その質問をすること自体が、カナダ人的だと思います。だって、アメリカ人はカナダ人との違いなんてどうでもいいと思っているはずだから。

「たぶん、カナダ人なら自動小銃を見つけたら、警察に届け出ると思う」

と、デイヴィッド・セダリスは答えていました。当たってると思って、笑いました。

私の座席のすぐ近くに、カナダではとても有名な女性弁護士がいました。いつも目立つファッションで身をかためているので、普段でもそうなのかと驚きました。最近自叙伝を出したと聞いたので、読んでみたら、これがなかなかよかったんですが、調べたら、ある種の人々に「キャンセル」されまくっていました。キャンセルされやすいタイプの人だからしょうがないのかもしれませんが、ちょっと残念です。

ポッドキャスト始めました

「きょうこりんと姉御のそんなんいえやん」ポッドキャストを始めました。きっかけは、クリスマスプレゼントにポッドキャスト用のマイクをもらったこと。「こういうのを渡しておけば、使うに違いない」と完全に性格を読まれてのプレゼントでした。ユーチューバーを目指すと思われたらしく、背景に使うムードライトのようなものまでもらいました。でも、さすがに顔出しは面倒くさい。

もともと滑舌が悪く、要領よく話せないので、一人でやってもなぁ、と思っていたら、一緒にやってくれる友だちが現れました。ふたりでやれば、おしゃべり感覚でできるし、ブログとは違ったことができますしね。

でも結局、音質をあげるために、ノイズキャンセレーションのマイク付きヘッドセットを買い、プレゼントしてもらったマイクは使いませんでした。ついでに、She-Kakuのイラスト担当の友だちにオリジナルロゴも作ってもらいました。いつまで続くかわからないのに、形だけはしっかり整えております……

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初回を録音するにあたり、脚本を用意したのですが、何度か練習撮りをしているうちに暴走し、脚本とは全然違うことをしゃべっています。

番組中に思い出せなかった、JRの特急の名前は「南紀」。

姉御が言っていた、内田康夫は伊勢志摩や南紀が舞台のミステリーを書いていました。また、同じく姉御が紹介していた「かわいい双子が紹介する三重弁の動画」も検索しました。

初回が終わり、「フリーダイヤル」と「ダイヤルフリー」と間違え続けたことと、自分の要領を得ない話し方に驚愕しています。昔から家族には「もっと要領よく話せ!」と叱られていましたが、一切改善されていません。

わたしはよく「誰もわたしの話を聞いてくれない」とふてくされていましたが、こんな話し方では、相手はしびれを切らすだろうと今ようやく気づきました。「人のせいにしていたけど、実は自分が悪かった」の典型です。

House of Gucci & West Side Story

あちこちで感想をしゃべり散らかしているから忘備録。

『House of Gucci』は、本物と偽物について考えさせられる映画だった。グッチ家に嫁に入ったパトリツィアは、もちろんグッチ家の血は引いていない。グッチ家の人々が偽物のバッグが出回ろうと気にしないのを見て、彼女は憤る。グッチ家の誰よりも商売を案じ、グッチの価値が下がることを嫌っているかのように。「あれはお金に目が眩んでグッチ家を引っ掻き回しただけだ」と思う人もいるだろうけど、どうもそれだけではなさそう。

それに、パトリツィアには男性を通じて自己実現を図ろうとするところがある。それは世代や、生まれ育った環境のせいかもしれない。夫マウリツィオに愛想をつかされても、執拗に追いかけて振り向かせようとする。「こんなことをして恥ずかしくないのか」と言われている彼女を見て、私は悲しかった。パトリツィアは、自分が本当にやりたいことなど考えたこともない人なのではないか。彼女は離婚により、本当に「かつてグッチ家にいた、本物じゃないグッチ」になってしまった。映画では、グッチ家の中にも胡散臭い人たちはいた。しかし、彼らは何をしようと、正真正銘のグッチ家の人だった。

最後に彗星のごとく現れたトム・フォードに、ブランドとしてのグッチが救われると、「本物って何だろう」と思わずにはいられなかった。

ところで、ジャレッド・レトがデブハゲを演じたことがプチ炎上していたらしい。本物のデブハゲにあの役を演じさせろ!ということだったようだが、ここでも「本物と偽物」が問題になるのかと、私は正直驚いた。本物のデブで、あの役に合いそうな人はポール・ウォルター・ハウザーぐらいしか思いつかない。役作りのために太る役者はたくさんいる。クリスチャン・ベールとか、レネー・ゼルウィガーとか。

スピルバーグ版の『West Side Story』は、特に予習もせず、「こういうのは大画面で見なければ」と映画館に行った。61年版のミュージカル映画が好きなので、「どんなもんなのかしら?」と楽しみにしていた。まずは、スピルバーグ版には、ドーラン塗ってプエルトリコ人役をやっている人はいなかった。映画の中で、プエルトリコ人たちはがんがんにスペイン語を話し、字幕に英語は出てこない。英語を話すときも、強いスペイン語訛りで話す。私は英語圏に住みながら、外で日本語をがんがんに話すことも多いので、プエルトリコ人たちがスペイン語で話していても全然気にならない。しかし、映画を観ながら、あれを快く思わない人たちが怒りをあらわにすると、揉め事に発展するのだなという思いを新たにした。話し言葉は「耳につく」ものだけに、嫌悪感も激しくなるのかもしれない。

今、ウクライナ侵攻のせいで、暴力と経済による「制裁」が盛んに報道されているけれど、世の中には「言葉」つまり文化による制裁もある。こちらは日常的に起きるから、自分の居住地の公用語はできるかぎり訛らずに話せたほうが、自己防衛になる。でも、言葉の習得は祖国の文化を守ることと背中合わせなので、バランスをとるのが難しい。世の中がぎすぎすしてくると、なお難しくなる。

マリアが恋人になる彼の名を「アントーニオ?」とスペイン語風に発音して、「いや、アントンだよ」と言われているのがかわいかった。また、マリアとトニーの外見が全然違うので、「人種を超えた愛」が視覚的にパッと理解できるのもよかった。ドーラン塗ってごまかしてるけど、実は白人同士ってのじゃ、ちょっと説得力に欠けるもんね…… 結局どっちのウエストサイドストーリーがいいのかは決められない。今のところ、どっちも同じくらいに好きだな。