SOAKED

トロントでも少しずつビジネスが再開しています。今のところレストランでの食事はパティオのみで許可されています。

遅い昼ごはんを食べようとパティオのあるレストランに行ったら、嵐のような突発的な雨に見舞われ、ずぶ濡れになりました。レストランはソーシャルディスタンスを守らないと営業停止させられるのかも(というか、守ってないと客が来ないだろうし)。レストラン側も「中に入って雨宿りしてってよ!」と言わず、客のほうも「中に入れろ」とごねる人も一人もおらず、客たちが風で吹き飛ばされそうなパラソルを手で押さえている光景に私は笑っていました。

私たちはパラソルの下にはいなかったのですが、突風に吹かれてパラソルから滴り落ちる雨粒の落下点にいたので、「どぼどぼどぼ」という感じで濡れてました。ウェイトレスが申し訳なさそうにタオルを持ってきてくれましたが、むしろこっちが、やっと店が営業再開して稼げるようになったウェイトレスが気の毒になりました。

「今日はくそ暑いから、 シャワーを浴びれて良かったよ」と思ってもないことをウェイトレスに口走ってしまいました。

今、私は仕事で「帝国」についていろいろと調べまくっています。なので、「ダウントンアビー」をもう一度見はじめ、山崎豊子の本(日本帝国の崩壊だね)も読みはじめ、「帝国一色」です。パティオでも、濡れながら帝国のことばかり話していました。

The Decameron

今『デカメロン』を読んでいます。イタリアの古典文学ですから、「ボッカッチョがデカメロンを書いた」という事実だけがよく知られています。ところがどっこい、なんでこんな面白い話今まで読まなかったんだろう! というくらいに面白い。

たとえば、うら若き尼僧が暮らす修道院がある。そこへ、口のきけないふりをした男が庭師としてやって来た。尼僧たちは、口がきけない男なのだから、「いいこと」をしたって誰にも口外しないだろうと男を誘惑する。男は畑より尼僧たちを耕すのに忙しくなる。ついに修道院長までもが男を誘う。修道院長の願いを叶えた男はこう訴えた。「いくらなんでも9人の女性を毎日耕すのは過酷な労働です。故郷に帰らせてください」

日本の古典文学や浮世草子のおもしろさと似ています。恋愛のことしか頭になかった平安時代の貴族が次から次へと変態じみたことをしでかして、それが文才のある人の手にかかると「文学」になる。

新型コロナウィルスのパンデミックをきっかけに、この『デカメロン』を読む人が増えているのだそうです。14世紀、黒死病で人がバタバタと死んでいくなか、「神様に祈っても効き目がない」と悟ったフィレンツェの富裕層の男女10人が、それぞれに面白い話をして時をやりすごします。信仰心や貞操を捨てたわけではないのですが、話の内容はものすごく人間的(欲望、嘘、裏切り、報復などなど)。現世的なもののほうが神様より面白いのです。そしてそこから、ルネッサンス(復興の時代)が生まれたので、ポストコロナに関心を持つ人たちのなかで読まれているようです。

日本語版はいろいろありますが、私が読んでいるのは平川祐弘訳。河出文庫から出ている電子版です。訳注もおもしろく、日本語訳の苦労がうかがわれます。日本では戦前、この小説は発禁だったのですが戦後になると解放されたのも、パンデミックレベルの大事件が起きると世の中がごろっと一転することの証かもしれません。

大地の子3&4

不要不急の外出を控える生活が続いているので、「時間があるときにやろう」と思っていたことを順番にやっつけている。『大地の子』の3&4巻もやっと読んだ。後半は時代が1985年ぐらいになり、もうちょっと身近な話になってきていた。小ネタでちょっと驚いたのが、中国がまだ日本からの経済や技術支援を受け、巨大な製鉄所を上海に建設しているときに、内蒙古の製鉄所では、中国の援助でタンザニアからの実習生が技術を学んでいたこととか、ソ連からの支援で建てられた製鉄所が、中ソの関係悪化でソ連に放置されたこと。

それにしても、これを読み終えるまでの道のりは長かった。テレビドラマにはなかった、主人公の妹「あつ子」が受けた虐待の詳細が3巻に書かれていて、読むのがつらかった。

中国残留孤児の宿命は、日本で生まれ育ち、そのままそこで骨を埋めるつもりの人、あるいは、途中海外で暮らすが、母国である日本に戻るオプションが当然のこととして残されている人には、わかり得ないのかもしれない。「日本に帰りたければ帰ればいい」と他人は簡単に言うだろうが、本人たちはそんな簡単には踏み切れない。心のどこかで「戻りたい」と思っても、不可抗力が働いて、「さあ、帰ろう」とはなかなか思えない。実際に行動に移すとしたら、それは経済的困難や被差別階級から抜け出したいなどの現実的な事情が後押ししているだけだと思う。かの国でどんなひどい差別を受けようと、長年かけ、そこで生き延びていく方法を身に着けた人々には、「どこへ帰るのか」と聞かれたり、「帰れ」と言われたりすることは、非常につらく、一生かけても答えが出せないような深いことなのだと思う。また、母国に帰ったとしても、またそこでも困難は待ち受けているはず。前にも書いたかもしれないが、山崎豊子がこんなにも長々と日中の歴史や製鉄技術をめぐる国際協力を書き、最終巻でページ数も残りわずかになってからやっと、主人公の陸一心に「私は大地の子です」と言わせて話が終わるのは、本当にすごい。たぶん、山崎豊子が一番言いたかったのはそれだったと思うから。

私も海外生活が長くなるにつれ、こんなことをぼんやりと考えるようになった。私も実際は「移民」なのだけど、なぜか自分は違うと思っていた。でも、どこかでうっすらと母国であるはずの日本との隙間を感じるようになっている。歴史に翻弄されたわけでもない、自分の意志で海外に出た人間でも、こんなふうに思うようになる。

コロナ禍のせいで、妙なことを考える時間が増えてしまった。

自己隔離生活(Breaking Bad)

El Camino

今更だけど、「ブレイキング・バッド」を全部見終わった。何年か前、シーズン2までは見ていたものの、見ているだけで力と魂が吸い取られるような内容なので、休憩しているうちに他のドラマに心を奪われていた。そして去年、「ブレイキング・バッドのその後」という設定の映画「エルカミーノ」がリリースされたので、それを見た。面白かったけど、やっぱりドラマを全部見てないから100%楽しむ、というわけにはいかなかった。もうこれは隔離生活中にドラマを全エピソード見るしかない!

で、魂を吸い取られつつ全部見た。ものすごく面白かった。どのキャラクターもよかったけど、スカイラーの非論理的(そう)な暴走ぶりが好きだった。

12年も前のドラマだからしょうがないけど、携帯電話がスマホでないことにいちいち気が取られてしまった。登場人物たちは、のっぴきならぬ電話を掛けたあと、二つ折りのガラケーをバキッと折って、跡がつかないようにする。あと、車の車種も気になった。PTクルーザーのような形をした車に時代を感じた。この12年間で劇的に私たちの暮らしが変わったってことだな。

あー、アリゾナに行きたい。 1994年にカリフォルニアからフロリダまで車で横断して以来、サウスウェストは大好きな場所になり、その後も何度も車で旅をした。でも最近行っていない。

それより、オンタリオ州とカナダ連邦政府の両方が、カナダにおけるコロナ終息までの今後の感染者数と死亡者数の予測を発表し、「夏にピークを迎え、秋には終息するだろう」などと恐ろしいことを言っていた。この北国では、春、夏、秋が駆け足で過ぎていき、長い冬が来る。今年は冬が明けても外出しづらいだけでなく、秋までなるべく家の中にいたほうがいいということなのだろうか? コロナも怖いが、コロナニュースでいきり立つ人々が苦手だ。

自己隔離生活(手芸三昧)

カナダに再入国して以来、14日間の自己隔離生活をしていたが、その間にオンタリオ州で緊急事態宣言が出たので、隔離生活は続いている。私は元々インドア派な上、在宅勤務なので、あまり苦痛は感じない。社交的な遊びに関しても、映画仲間からはメールで「おすすめの映画」が送られてくるし、ブッククラブからは「Zoomで読書会」のお知らせがあったし、句会もバーチャルにやることになった。

日本帰国中、いろんな布を買ってきたので、映画やドラマを見つつ、いろんなものを作っている。一番の大作は「ローブ」。しかも贅沢にネルのリバティプリントで作った。買った型紙の見本がリバティで作られていたというのもあるけど、理由はほかにもある。

去年入院したとき、以前リバティで作ったすっぽりかぶれるワンピースをパジャマ代わりに着ていたら、人に「カワイイね」と褒められた。サイズがうまく合わず、ワンピースとしては失敗だったけど、パジャマとしては優秀。パジャマ一つで気分が上がるものだ。今は寝るときに楽しい気分になりたいので、パジャマはなるべくかわいくしている。その延長で、このローブを作りたかったというわけ。ちなみに、5歳の姪っ子も、お気に入りのキャラクターのパジャマをどんなにぴちぴちになっても、寝るときはそれを着ている。ノリとしては同じ。

このキモノ風のローブを作るには、まず、裁断したり、待ち針つけたりするのに、長ーい布を広げるスペースがいる。なのでまずは床掃除から始まった。そして手でまつり縫いもしなければならなかったので、「くけ」も使った。「くけ、ご無沙汰!」と言いながらソーイングボックスから取り出したほど、久しぶりに使った(20年ぶりぐらい?)。

このローブはパターンに問題があって、わきの下がきつく仕上がってしまう。PurlSohoのウェブサイトにその解決方法が載っていたけど、あとの祭りだ。まあ、気が向いたら、直すことにしよう。