House of Gucci & West Side Story

あちこちで感想をしゃべり散らかしているから忘備録。

『House of Gucci』は、本物と偽物について考えさせられる映画だった。グッチ家に嫁に入ったパトリツィアは、もちろんグッチ家の血は引いていない。グッチ家の人々が偽物のバッグが出回ろうと気にしないのを見て、彼女は憤る。グッチ家の誰よりも商売を案じ、グッチの価値が下がることを嫌っているかのように。「あれはお金に目が眩んでグッチ家を引っ掻き回しただけだ」と思う人もいるだろうけど、どうもそれだけではなさそう。

それに、パトリツィアには男性を通じて自己実現を図ろうとするところがある。それは世代や、生まれ育った環境のせいかもしれない。夫マウリツィオに愛想をつかされても、執拗に追いかけて振り向かせようとする。「こんなことをして恥ずかしくないのか」と言われている彼女を見て、私は悲しかった。パトリツィアは、自分が本当にやりたいことなど考えたこともない人なのではないか。彼女は離婚により、本当に「かつてグッチ家にいた、本物じゃないグッチ」になってしまった。映画では、グッチ家の中にも胡散臭い人たちはいた。しかし、彼らは何をしようと、正真正銘のグッチ家の人だった。

最後に彗星のごとく現れたトム・フォードに、ブランドとしてのグッチが救われると、「本物って何だろう」と思わずにはいられなかった。

ところで、ジャレッド・レトがデブハゲを演じたことがプチ炎上していたらしい。本物のデブハゲにあの役を演じさせろ!ということだったようだが、ここでも「本物と偽物」が問題になるのかと、私は正直驚いた。本物のデブで、あの役に合いそうな人はポール・ウォルター・ハウザーぐらいしか思いつかない。役作りのために太る役者はたくさんいる。クリスチャン・ベールとか、レネー・ゼルウィガーとか。

スピルバーグ版の『West Side Story』は、特に予習もせず、「こういうのは大画面で見なければ」と映画館に行った。61年版のミュージカル映画が好きなので、「どんなもんなのかしら?」と楽しみにしていた。まずは、スピルバーグ版には、ドーラン塗ってプエルトリコ人役をやっている人はいなかった。映画の中で、プエルトリコ人たちはがんがんにスペイン語を話し、字幕に英語は出てこない。英語を話すときも、強いスペイン語訛りで話す。私は英語圏に住みながら、外で日本語をがんがんに話すことも多いので、プエルトリコ人たちがスペイン語で話していても全然気にならない。しかし、映画を観ながら、あれを快く思わない人たちが怒りをあらわにすると、揉め事に発展するのだなという思いを新たにした。話し言葉は「耳につく」ものだけに、嫌悪感も激しくなるのかもしれない。

今、ウクライナ侵攻のせいで、暴力と経済による「制裁」が盛んに報道されているけれど、世の中には「言葉」つまり文化による制裁もある。こちらは日常的に起きるから、自分の居住地の公用語はできるかぎり訛らずに話せたほうが、自己防衛になる。でも、言葉の習得は祖国の文化を守ることと背中合わせなので、バランスをとるのが難しい。世の中がぎすぎすしてくると、なお難しくなる。

マリアが恋人になる彼の名を「アントーニオ?」とスペイン語風に発音して、「いや、アントンだよ」と言われているのがかわいかった。また、マリアとトニーの外見が全然違うので、「人種を超えた愛」が視覚的にパッと理解できるのもよかった。ドーラン塗ってごまかしてるけど、実は白人同士ってのじゃ、ちょっと説得力に欠けるもんね…… 結局どっちのウエストサイドストーリーがいいのかは決められない。今のところ、どっちも同じくらいに好きだな。

読書会2 – わたしはイザベル

はぁ…… 世の中はウクライナの戦争一色。いろいろと考えることはありますが、今はただただ自分の日常を守るのみ。

海外YA作品を日本語で読む読書会その2がありました。第1回目は勇み足で3冊も選んでしまい、話し合いきれなかったので、今回は『わたしはイザベル』(原題は『I for Isobel』)1冊のみ。

これもSTAMP BOOKSシリーズの1つで、オーストラリアの作品。1979年に書かれてから10年という長い年月を経て、1989年に出版されたという、時代の先を行っていた小説です。今でいう「毒親」の呪縛から自分を解放する話です。この小説が書かれた頃は「毒親」という言葉もなかったから、親という権力者を否定する小説は社会が認めなかったのかもしれません。

頭が良く、創造力と文才に恵まれた主人公は、幼い頃から才能の芽を母親にことごとく摘み取られてしまう。そのせいなのか他人とうまく関われない。母親から解放され、自立するようになってから、山あり谷ありの道を歩むのですが、そのぎこちなさといったら! 途中イマジナリー・フレンドを作ったり、実際に自分を肯定してくれる人々と出会ったりしながら、少しずつ自分を取り戻していきます。

「毒親」から解放された主人公に安堵を感じ、応援せずにはいられませんでしたが、私にとっての伏兵は「ストーカー行為」を吹っきった別の登場人物でした。毒親と同じく、執念も払拭するのは相当難しい。

この本を読んで勇気を与えられた人は結構いたんじゃないのかな……と言いかけたら、日本では萩尾望都がまったく同じテーマで『イグアナの娘』を書いている! と読書会仲間が言い出し、次回は、この流れで『イグアナの娘』をお題にすることになりました。

自分一人で読んでいたら、まったく気に留めなかっただろう詳細に、注意を喚起されました。一冊をこんなにじっくり味わえるなんて!!と感謝しながらの読書会でした。

18世紀のドレスメイキング – 手縫いで作る貴婦人の衣装

新しい訳書が出ました。

縦横無尽にいろんなトピックの本を訳している私ですが、今回はじめて、趣味と仕事が合致しました。訳しながら、試し縫いしていたので、お手々が超忙しかったです。

18世紀のドレスを18世紀らしく手縫いで作ってみましょう、という本で、4タイプのドレスが紹介されています。この時代に女性の服がどのように変化していったのかがわかる一冊です。基本、現代に近づくにつれ、本来下着であったものが外に出てくるわけですが。著者たちが18世紀に注目したのは、アメリカ人だからかもしれません。現代のアメリカは18世紀に「建国」したことになっているので。あくまでも私の想像ですが。

著者たちは、ビジネスもお上手です。ドレスは作れても靴までは自分で作れません。だから、18世紀の靴を販売しています。はぁ~、さすが商売上手のアメリカ人!!サイトはこちら:https://www.americanduchess.com/

お裁縫の猛者のみなさん、これを見てドレスを作ったら、是非SNSに載せてください。見たいです! 全部ドレスを作らなくっても、袖だけとか、ペチコートだけとか、ストマッカーだけでも楽しいと思います。特にストマッカーは、普通のテーラードジャケットを着たときに使えそうです。翻訳中にドールサイズでイタリアンガウンの袖を縫ってみました(↓)

完成したら、こちらの動画を見て、自分で着つけてみてください(本にも着方の説明あります)

Karen

中年の白人女性で、空港などで長蛇の列に並ばされているときに、自分はもっといい扱いを受けて当然だと言わんばかりに、怒りに任せて暴言を吐きまくる人を、英語で「カレン」と呼びます。定義には、ある種の外見も含まれているようですが、ま、それはさておき。

確かに、私が実際に見かけた中では、白人女性が多いような気がします。でも、空港はそもそもストレスを強く感じる場所。誰もが質の悪いクレーマーになり下がる可能性はありますよね。

私は荷物チェックをするところで、大家族で移動している人々に超いらついてしまって、さりげなく、彼らの機内持ち込み用の荷物を蹴ったことがあります。ところが、超高級品だったせいか、キャスターの滑りがよく、コロコロ~~~~っと勢いよく転がってしまい、自分で蹴っておきながら、また拾いに行きました。ついでに、監視カメラに自分の愚行が映ったのではないかと、きょろきょろしました。一応、私も加害者「カレン」になったことがあるんですねぇ。

カレンの犠牲者になったこともあります。空港の自動発券機でカレンに圧をかけられたのです。そのカレンは「どの自動発券機を使っても壊れてる!」と怒っていました。いきなり、ピ、ポ、パ、と難なく操作している私のところにやってきて、「壊れてるでしょ?」と言うのです。

「私のは壊れてませんけど」

としらっと返事したら、キーーっと怒って暴言を吐きながら去っていきました。普通なら、私の後ろに並んで「わたしもその機械を使おう!」と考えるのでは??と思いました。そのカレンの後ろ姿を目で追いましたが、背中に背負った小さめのバックパックのファスナーが全開。中のものがぽろぽろと落ちている。いつもなら、「カバンが空いてますよ!」と絶対言いますが、放っておくことにしました。

後日、白人の友人にこの話をしたら、「どうしてカバンが開いてること、教えてあげなかったの?」とやや批判気味に言われたので、むっとして「だって、向こうが無礼だったから」と答えました。でもその答えが、狭量な自分を表しているようで不当に感じました。当時は「カレン」という言葉はまだなかったはず。あるいは、あっても知らなかった。

「だって、あいつはカレンだったから」

と言えたら、友だちも「だよねー」で納得し、笑ってくれたはず。造語の大切さを知りました。

私は今、これから楽しい食事のひとときを過ごそうとしているときに、食通すぎて人のレストランや食事の選択を批判する無礼者に、「カレン」のような名前を付けたいです。皿が並ぶだけに「サラ」とか? でも女性に限ったことではないので、何がいいかなぁ。

でも、今はコロナ禍のせいで、人が逆上しやすいので、気を付けなければ!

ブラジル日報の連載小説

翻訳仲間で、アルゼンチンにいらっしゃる相川さんが「ブラジル日報」に小説『おてもやんからブエノスアイレスのマリア様』を連載しています。新しい話が掲載されるたびにお知らせが届き、楽しみに読んでいます。90年くらい前に写真花嫁としてアルゼンチンに移住した女性の聞き取りをもとに書かれていて、素朴な語り口と、一緒に掲載される写真がステキなのです。「かね」さんと、「くまお」さんのほんのりした愛にも、ぎすぎすした都会に住んでいる私は癒されています。

私はカリフォルニア州にいたときも、トロントに移住してからも、あまり地元の日系社会には属していないのですが(いつも家の中にいるので、属しようがない)、それでも『おてもやんからブエノスアイレスのマリア様』に書かれている様々なことに共感できます。たとえば、「国語」という概念。自分の「国語」である日本語を使わずに、「英語」という現地の「国語」を使って暮らすこと。「英語」を国語のごとく自由に操れないために、社会の周縁が自分の居場所になりがちなこと。いつの間にか現地に馴染み、日本の基準に照らし合わせると、やや規格外になっている自分。あと、小説には書かれていないけれど、現地に長く住むことで国粋的思想を先鋭化させる人々。移住者と短期滞在者との間に生じる様々な齟齬。

「かね」さんの人生がこの先どうなるのか楽しみで仕方ない。今、10話。みなさんも是非読んで!FBでいつもシェアしてるけど、ここでもシェア!

ついでに、「ブラジル日報」のローカルニュースを読むのが日課になりました。南米に一度も行ったことないですが、今ものすごく行ってみたい。