職業設定類語辞典

http://filmart.co.jp/books/playbook_tech/occupation_thesaurus/

フィルムアート社から「類語辞典シリーズ」の新しい辞典が出ました。『職業設定類語辞典』です。翻訳を担当しました。創作のお供に是非!!

私も小説を読むときに、登場人物の「職業」が気になります。最近読んだ『ある一生』というドイツの小説の主人公は、ロープウェイを設置するための基礎工事を担う労働者で、コツコツと自分の人生をひたすら歩む山男にはぴったりの職業でした。私の大好きなジョン・ヒューズの映画『ブレックファスト・クラブ』も『フェリスはある朝突然に』も、登場する高校生たちは学生なので無職ですが、親がほとんど出てこないのに親の職業が背景情報としてとても重要です。ネットフリックスの『クイーンズ・ギャンビット』に出てくる養母も「専業主婦」だったことが、主人公が一気に羽ばたくきっかけになっています。友だちに、最近面白かったドラマのあらすじを話すときにも「主人公は弁護士なんだよね」と、職業は外せないディテールではありませんか?

たとえば、「翻訳者」という職業。

まずは、本が好き、文章を書くのが得意、内にこもるのを厭わない、などの推測ができそうです。

そこからさらに掘り下げて、クリエイター志望なのに、クリエイターにはなりきれない事情(自信がないとか? 職人気質のほうが勝っているとか?)があって、小説家にはなっていない。小説を翻訳しているときに、いつもあら探しをしてしまい、「自分なら、こうは書かない!」と悪態をついている。あるいは、語学能力にコンプレックスがあってそれを克服したくて翻訳をやっているのに、ある日、編集者から「誤訳が散見されます」と赤字で書かれたゲラが届く…… あるいは、どこにもうまく帰属できなくて、二つの文化の狭間にいることにある種の心地よさを感じているところへ、とある団体に所属せざるを得ない事情が発生する、などなど。

「翻訳者」という設定なのに、「超社交的で毎晩出かけている」だと少し違和感を感じます。それなら、「通訳者」という設定のほうがしっくりいくのでは、なんてこともあるのでは。

この一冊で、妄想が広がりますよ!!

http://filmart.co.jp/books/playbook_tech/occupation_thesaurus/

YA翻訳の勉強会

最近、YA書の翻訳の勉強会に入れてもらいました。別にYAを翻訳する案件はないのですが、仕事ではかたい訳文を作ることが多いので、ちょっとやわらかな訳文を作る練習をしようと思い立ちました。意識の高い社会人やクリエイティブ系の大人が読むようなノンフィクションと、中高生が読む本とでは、単語選びも、漢字の開き方も、全然違う。というか、おそらく「海外文学はこれがはじめてです」みたいな読者層に向けた文章の書き方を勉強してるわけです。

ああ、いろいろ勉強になる……。日本語ムズカシイ。

最近、アメリカのラジオ番組で、アメリカ人夫婦に養子縁組されたあと、パキスタンにいる生みの親を訪ねたところ、アメリカに帰してもらえなくなった女性の話を聞きました。

その女性(当時は女の子)は、1990年代にパキスタンからアメリカに帰してもらえなくなり、生みの親に「アメリカナイズされすぎているから再教育する」と言われ、軟禁されてしまいます。「女は本など読んではいけない」とも言われ本も読めなかった。そこで、こっそりなんとか入手したのが『若草物語』だったのです。人がいない時を見計らって、この小説を何度も何度も、丸暗記してしまうほど読んだのだそうです。

紆余曲折を経て、彼女はやっとアメリカに戻ったのですが、その頃には英語も自由に話せなくなっていて、パキスタン流の女性の生き方が身に沁みついていました。逆カルチャーショックを味わい、自分はどう生きていけばよいのかわからなくなったとき、『若草物語』を開いては、あの四人姉妹の生き方(特にジョーの生き方)を参考にしていたそうです。1868年のアメリカ女性の生き方と、1990年代のパキスタン女性の生き方に、わりと共通点があったから参考になったと言っていました。

YAってそういうところあるよな、とラジオを聞いていて思いました。私も『若草物語』のジョーとか、『赤毛のアン』のアンとか、少女漫画の主人公とかを自分に重ねて考えていました(女の子が逆境を克服する話に共感していた)。

話はずれますが、1950年代のニューヨークの広告業界を舞台にした『マッドメン』にはまっていたときも、「職場における男女の位置づけやセクハラの感じが、1990年代の日本と同じくらいなのかな」と思いながら見ていました。私が一番共感できたのは、もちろん「ペギー・オルソン」です。

Sapiens

最近、誰かに読み聞かせしてもらっているみたいにオーディオブックを聞きながら、紙書籍を読むのが気に入っています。同じものを二重に買いたくないので、オーディオブックを図書館で借りるのですが、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は、なぜか最近までなかなか図書館では借りられませんでした。コロナ禍でみんながこぞって読書していたか、どこかのブッククラブがこれをみんなで読んでいたか……

紙書籍はUK版(カナダの書店で売られている)なのですが、なんとオーディオブックはアメリカ版でした。さらにややこしくしているのは、朗読者がイギリス人なのです。

ホモサピエンスが移動した距離などが紙のほうではメートル法で書かれているのに、聞こえてくる数字はマイルやインチ。限りなくクセのない英語で読み上げているとはいえ、イギリス英語であることは明白なのに、マイルやインチで数字を読み上げる! 全然集中できない! さらに、ところどころ細かい部分が書き換えられています。出版された国が違うからなのか、それとも版が違うからなのか…… 全然集中できない!

最近、KOBOでオーディオブックのサブスクをやるよというお知らせが届きました。図書館は大変にありがたいのですが、(仕事で本を読む場合は特に)待たなければならないのはネックです。KOBOで買ったとしても、オーディオブックがどの英語で、どの度量衡で読み上げられるかは、開いてみるまでわかりませんけどね。

私が訳すノンフィクション書籍では、ユヴァル・ノア・ハラリの著作からの引用が出てくることが多いです。日本語版は前から持っていて、引用箇所の周辺だけちらちら読んでいましたが、通読をしたことがなかった。そこへ、人から「英語版あげる~」と本をもらったので英語で読んでみることにしたわけです。

カナダ人は夏にゆっくり休暇を楽しむ人が多いです(生活にゆとりのある人は、ということなのかもしれませんが)。そのせいか、毎年「Summer Reads」といって、湖畔のコテージでのんびり読書したい人のための書籍リストが出てきます。今年はこちら。日本だと「読書の秋」だから、読書の季節が違いますよね。私は日本にいたときから、読書は夏にしてましたが。

書評の書き方講座

最近、翻訳業界の諸々について調べているうちに、書評に興味を持つようになり、 日本語あるいは英語で書かれた書評をあれこれと読んでいました。書評ばっかり読んでいると、やっぱりすばらしいものとそうでないものがあることに気づく。プロの書評家さんたちからも、書き方ではないけれど、諸事情を教わりました。

出版翻訳者として書評の副業はありだと思います。第三者的な目で読むことに慣れているから。副業にしなくても、翻訳にまつわる仕事(ブックレジュメの書き方など)に大いに役立つと思う。でも、勉強する機会が海外にいるとなかなかない…… できれば、翻訳者に特化した書評講座があったらな……

一般者向けのようですが、うまい具合にZoomの書評講座を見つけたので、書評の書き方を勉強することにしました。講師は豊崎由美さん。最高じゃないですか!! 実は、コロナ禍の中で時間を捻出して勉強する友人知人が周囲に増えていて、私も何かやろうと思っていたところでした。本のレジュメをもっと魅力的に書けるようになりたいし(悪くはないレジュメを書いていたとは思うけど、自分の能力を客観的には判断できない)。

たった一回の講座ですが、受講日までに本を一冊読んで書評を書くのが宿題。先着10名分しか講評してもらえないという決まりもある。これは絶対に講評してもらわねば! と電子書籍を慌てて買い、メモをとりながら猛スピードで読み、ざざざっと書評をかき上げました。ギリギリ間に合った!!

お題には、和書と訳書の選択肢があり、訳書を選びたかったのですが、そちらは電子書籍ではなかったので、残念ながら時間内に手に入れるすべがありませんでした。

講評してもらったら、このブログに掲載してみようかな、ビフォアフター形式で。ハハハ…… どうなることやら。

いろんなことがめんどうくさい気分

長期間休みなく働いたせいなのか、急に静かになって、投げやりな気持ちになっている。本を読んでも、映画を見ても、散歩しても、ピアノを弾いても、なんかもうひとつ面白くない。

私は、これまで大してツイッターをやってこなかったのだけれど、最近、いつもより頻繁につぶやいたら、もらい事故が発生。コレ↓

やたらポジティブ思考で悪かったな。

著名人からの流れ弾だったので、私からしてみると恐ろしい数の人がこのツイートを目にした。私のつぶやきの内容に同意してくれる人が半分、「なんだこのお花畑系のやつは!?」と思った人が半分といった感じ。これが短文投稿の世界の現実……。実を言うと、私がネット世界で「お花畑批判」を受けたのはこれで2回目。1回目はニットで募金活動を始めたとき。どちらも面識のない人からの批判であることに注目したい。

さて、このブログには、私が前向きな気持ちになれた経緯を書き残しておこう。

先週、ジュリエット・カーペンターというアメリカの日本文学の翻訳者(結構なお年の大御所)の公演にズームで参加したときのこと。参加者の誰かが、「専門にしている分野ってありますか?」と質問した。それに対し、ジュリエットはこう答えた。

「専門分野って…… 何も自分の可能性を狭める必要はないでしょう?」

さらに彼女はこう続けた。

「安部公房の小説が訳したいからって、安部公房の本しか読まないわけじゃないでしょう。いろんな本を読むわけでしょう?」

彼女は仏教の専門書も訳すらしく、そのときは仏教の専門家の助けを借りている。翻訳者には、編集者という陰の功労者が付いているから、最終的に訳文が磨かれるのは、編集者や専門家のおかげだとも言っていた。まさに。自分が書いた訳文を世間が目にする前に、推敲を手伝ってくれる人々がいるからこそ、世に出せる。つまり、翻訳者とは翻訳の専門家だということ。もちろん、専門知識があれば大いにプラスになるし、そのための勉強もする。

他の訳者がどうなのかは知らないけれど、私は自分から訳書を選ぶ立場に立ったことがない。まず翻訳予定の原書があって、それを「翻訳しませんか?」と打診される。あるいは、試訳を提出して、何人かの訳者と競い選定される。むしろ、「そろそろ、これくらいのレベルの本を一人で担当できますよね」と成長の機会を与えられる。

ノンフィクションの形をとりながら小説みたいなストーリー性の高い本なら訳した経験があって、いつか小説を訳したいとは思っているけれど、まだ声を掛けられたことはない。つまり、自分の能力を顧みずに本の翻訳を引き受けたことは一度もない。そもそも私は翻訳界の片隅にしかいない。私のようなポジティブ思考の人間が、その思考回路だけで「アマンダ・ゴーマンの詩を訳したい」と挙手しても、出版界や世間が認めない。

後で調べて気づいたけど、ジュリエット・カーペンターは私の母校の先生だった。在学中に既に教鞭をとっていたらしいけど、覚えていない。川端康成の『雪国』を訳したエドワード・サイデンステッカーに師事して翻訳を学んだ時代の人だ。日本文学を訳せる人がそれほど多くなかった時代に、作家や分野を問わず、積極的に何でも翻訳に取り組んだ人の言葉に私は感銘を受けた。

ちなみに、件のツイートは削除していない。プチ炎上しても24時間以内に鎮火することを身をもって知った。